見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

翻訳-自己を映す鏡/漢文脈の近代(斎藤希史)

2005-12-28 23:56:43 | 読んだもの(書籍)
○斎藤希史『漢文脈の近代:清末=明治の文学圏』 名古屋大学出版会 2005.2

 いや~面白かった! 語りたいことが、たくさんある。何から行こう? 本書は、今年の2月に出版されたものだが、私が書店で発見したのは先月のことだ。サントリー学芸賞の発表とともに、目立つ棚に移動したものと思われる。

 サントリー学芸賞! 私は、どんな文学賞よりも、毎年、この賞の受賞作が気になる。とにかく、読んで間違いがない。私が読書に求めるものと、ピタリ照準が一致するのである。公式ホームページには、「従来、評論・研究活動を幅広く顕彰する賞は少なく、既存の枠組にとらわれない自由な評論・研究活動に光を当てることは、本賞の重要な役割」とうたっている。よくぞ、そこに気づいてくれました!と喝采を送りたい。

■サントリー学芸賞(サントリー文化財団)
http://www.suntory.co.jp/sfnd/gakugei/index.html

■第27回サントリー学芸賞の決定(選評あり)
http://www.suntory.co.jp/news/2005/9300.html

 著者の斎藤希史さんは、初めて見る名前だったが、「清末=明治の文学圏」という問題措定の魅力と、オビの「サントリー学芸賞」を見て、すぐ購入を決めてしまった。ここでムダ話をもう一席。私は、かなり人文書に目配りしているつもりだが、さすがに大学出版会の刊行物を購入することは少ない(値段も高いし)。しかし、下記の記事によると、今年の「サントリー学芸賞」の受賞作9点のうち、3点が名古屋大学出版会の本だったそうである。これはすごいことだと思う。

■「名大出版会 良書生むこだわり」(本よみうり堂)
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20051118bk01.htm

 さて、内容は、繰り返しになるが、とにかく面白かった。全体を貫く主題は「19世紀後半から20世紀にかけて、かつてないほど相互に交通し作用しあった日本と中国において起きたécriture(書かれた言葉)の変容」である。もともと1冊の書物を志して書かれたものではないので、各章は「微妙に異なる志向」を持っているが、そのことが、さほどボリュームのない著作を、かえって非常に魅力的にしている。

 第1部は、近代初期、「日本文学史」が書かれるために、「支那」の発見(外部化)が必要だったことを述べる。文学史が「書かれたもの」の歴史であるなら、漢字の渡来以前、日本に固有の文学は存在しなかったことになる。国学者たちは、様々な手法でこのアポリアに立ち向かう。たとえば、表記よりも音声を優先させ、あるいは漢文の史書よりも和歌や物語を優位に置く。

 「和漢混淆」状態を「日本」であると開き直ると同時に、その外部に「支那」を把握することも、ひとつの方法であった(このとき、「漢文」は日本の内なるものとして把握される)。その結果、中国本土に先んじ、世界でいちばん早い中国文学史は、日本人の手によって書かれた。それは、「日本」というネイションを、内側からも外側からもはっきりした輪郭をもつものに作り上げるために、どうしても必要な作業だった。

 第2部は、清末民国初の思想家・梁啓超を取り上げる。うれしいなあ...私は梁啓超ファンなのである(CCTV制作のTVドラマで、演じていた俳優さんがカッコよかった)。彼が亡命先の日本で、出版を通じた啓蒙活動・政治活動を行っていたことは知っていたが、日本の「政治小説」を翻訳していたということは知らなかった。いや、そもそも高校や大学(国文科)の文学史では、明治初期に「政治小説」の流行があった、ということは習うけれど、文学作品としては、ほとんど重視されないので、それらが同時代に国境を超えた読者を獲得していたなんて、考えたこともなかった。

 著者は、梁啓超が、日本の小説の翻訳を通じて、中国の文学を発見していく過程を跡づける。また、梁啓超の華訳と読み比べることによって、最も代表的な2編の政治小説『佳人之奇遇』(東海散士・柴四朗)と『経国美談』(矢野龍渓)の差異を示す。前者は才子佳人小説の伝統に基づく(元ネタは遊仙窟か?!)「詩人の小説」であるのに対し、後者は近世小説から脱却しつつある「史家の小説」である。

 このあとは、「中国」という合わせ鏡を少し離れて、明治の「漢文」の諸相について論ずる。矢野龍渓『浮城物語』を通じて考える、明治初期の新聞というメディア論。娯楽小説と純文学の対立。万能の文体「今体文=漢文調=新聞の文体」の成立と、作文指南書および作文投稿雑誌の問題。銅版印刷の効用にも触れる。それから、明治の游記(紀行文)。

 『十五少年漂流記』などの翻訳で知られる森田思軒の翻訳文体論は、本書の白眉であろう。日本語として自然に感じられるのが、いい翻訳文であるという、思い込みを破ってくれる。少なくとも、本書に引用されている「漢文調」の思軒訳って、私にはとても読みやすい。

 本書を出発点として、清末=明治の文学圏のさまざまな問題に渉っていけそうな気がする。歳末を祝すような、嬉しい出会いの1冊だった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 挿絵本のたのしみ/うらわ美術館 | トップ | 馬賊になった日本人/馬賊(... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

読んだもの(書籍)」カテゴリの最新記事