見もの・読みもの日記

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市民主義を撃つもの/ネット右派の歴史社会学(伊藤昌亮)

2020-03-01 23:34:15 | 読んだもの(書籍)

〇伊藤昌亮『ネット右派の歴史社会学:アンダーグラウンド平成史1990-2000年代』 青弓社 2019.8

 かなり大部な本だが、評判がいいので読んでみた。ネット右派というのは、俗に言う「ネトウヨ」(ネット右翼)とおおむね重なるが、滑稽で醜悪なイメージに引きずられないため、本書ではこのように呼ぶ。

 ネット右派言説を構成するアジェンダ(項目)には「嫌韓」「反リベラル市民」「歴史修正主義」「排外主義」「反マスメディア」の5つがある。そしてネット右派言説の担い手は、保守系セクターの「サブカル保守」「バッククラッシュ保守」「ビジネス保守」と右翼系セクターの「既成右翼系」「新右翼系」「ネオナチ極右」の計6つのクラスタに分類できる。「はじめに」で示される、以上の見取図には、特に異論は抱かなかったが、面倒臭いことをするなあという感じだった。

 ところが、時系列に沿った分析を読み進むにつれて、この見取図の的確さに唸らされることになる。ネット右派言説は、決して最初から今のかたちで存在したわけではないのだ。1990年代から2000年代の日本を一緒に生きてきたはずなのに、個人的には知らなかった(または忘れていた)ことが多かった。

 たとえば1990年代前半には、ネット右派に先駆けて雑誌をベースにした新保守論壇が成立し、嫌韓アジェンダが取り上げられるようになる。ただし当時は主にエスタブリッシュ保守の側から「外なる敵」韓国に向けたものだった。

 1990年代半ばの日本では、東欧革命を端緒とするヨーロッパ発の「新しい市民社会論」と、ネットの普及を契機とするアメリカ発の「新しい市民社会論」の影響で、リベラル市民主義がブームになる(え~そうだっけ?全く忘れていた!)。同時に、市民主義が陥りがちな教条主義・規範主義への批判精神から、反リベラル市民アジェンダが形成される。その担い手となったのが、サブカル保守クラスタだった。

 1990年代後半には教科書問題を契機に、復古的・権威主義的なバッククラッシュ保守クラスタが台頭し、歴史修正主義アジェンダが顕在化する。ここに合流したのが小林よしのりに率いられたサブカル保守クラスタで、後者の若いナイーブな集団は、前者の老獪な権威主義に取り込まれて、戦後民主主主義の全否定へ突き進んでいくことになる。このとき、彼らを急激な右旋回に追いやったのは、左すなわちリベラル市民主義の側の規範主義的な批判圧力でなかったかという指摘はとても重要に感じた。

 また1990年代後半には日本に本格的なネット文化が始まる。本書には、当時のアングラネット論壇について豊富な情報(聞いたこともない掲示板の数々!)と詳しい分析が記述されていて興味深かった。なかなか他の「平成史」では知ることのできない世界である。

 2000年頃にはヨーロッパの右翼・極右の受けたネオナチ極右クラスタが登場し、外国人労働者をターゲットにした排外主義アジェンダが成長を続ける。ここにサブカル保守クラスタの間で保持されていた嫌韓アジェンダが合流し、「内なる敵」在日コリアンへの威嚇的・戦闘的な態度が形成される。

 1999年に開設された2ちゃんねるはサブカル保守クラスタの拠点で、反リベラル市民という批判精神、問題意識を受け継ぎながら、政治的にはほぼニュートラルだった。うん、当時(私は2001年頃に初アクセス)の雰囲気を思い出して、この指摘は間違っていないと思う。彼らの反権威主義の精神は、新たな標的としてマスメディアを見出し、朝日新聞とフジテレビ叩きに向かう。朝日新聞はその立ち位置が「左」だからというより、「上」(特権的エスタブリッシュメント)だから叩かれたのではないかという指摘も面白い。

 2000年代前半を通じて2ちゃんねる文化は徐々に右傾化を強めていく。ただし当初の目立った動きは、リベラル側が持ち出す専門知の権威(伽藍方式)に、集合知(バザール方式)で対抗しようとしたもので、彼らなりの主知主義と反権威主義が一貫していた。しかし2000年代半ば、大人向け出版メディアにおいてバックラッシュ保守が再興されると、サブカル保守との融合が進む。一方、政治よりも経済・金融などの関心に即して、ネット右派的な主張を展開するビジネス保守クラスタが新たに誕生する。しかし、2010年代には彼らの主張が安倍政権の暗黙的な了解事項となってしまったことで、彼らは存在意義を失い、残されたクラスタは「行動する保守」として、より先鋭的な行動に進んでいくことになる。

 著者が繰り返し参照するのは「市民」と「常民」という枠組みである。市民派知識人である社会学者の日高六郎は、1960年の論考で「市民」という概念の「弱さ、問題性、欠陥」を意識していたという。ネット右派、特にその一大勢力であるサブカル保守クラスタは「ネット常民」として、リベラル市民主義の教条化に批判と警告を浴びせてきた。彼らの「集合知」には一定の意味がある。しかし結局、個の言葉を持たない彼らは、しばしば、あまりにも易々と権威主義や差別主義に取り込まれてしまうことが悩ましい。

 2020年代以降、巨大掲示板からSNSと動画へ舞台を移した続編が、いつか書かれることを期待する。あとがきに著者の大学院の指導教官だという水越伸先生への謝辞を見つけたことをメモしておく。


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