見もの・読みもの日記

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平等の代償/解放令の明治維新(塩見鮮一郎)

2011-09-06 00:42:38 | 読んだもの(書籍)

○塩見鮮一郎『解放令の明治維新』(河出ブックス) 河出書房新社 2011.6

 解放令とは、明治4年8月28日(1871年10月12日)に明治政府が行った穢多非人等の称や身分の廃止などの旨を記した太政官布告である(Wiki)。本書は、解放令に先立つ幕末体制下で、差別の当事者の間に起きた人権思想の「覚醒」を、穢多頭・弾左衛門(のち弾直樹、1823-1889)を中心に論じ、解放令発布までの経緯と、その波紋、美作津山一揆と筑前竹槍一揆について語る。

 解放令は、本当に当事者の幸いとなる法律だったのか。違った選択肢はなかったのか。初めは人権思想に根ざして論じられていた解放論も、結局「近代化における『解放』とは『弾圧』の謂(いい)であった」というのが、著者の問題意識である。

 解放令以前。これは全く知らないことだらけだった。黒船来航によって開港が決まり、幕府が蒸気船を購入すると、缶焚きに穢多身分も動員され、同じ缶焚き身分の黒人と交流した。片言の英語と日本語によって「黒人は日本の賎民の実態について知ったし、日本の被差別民は、南北戦争から奴隷解放へいたる流れを理解した」って、著者は典拠を挙げずに書き流しているので、どこまで確かめられている史実なのか疑ってしまうが、小説のようで面白いと思った。

 奥医師・松本良順が、弾左衛門に会いに行ったというのにも驚いた。もちろん良順には幕臣としての思惑があり、弾左衛門のカネと人手をあてにしての行動だったというが、伝統や常識にとらわれない行動力に感心する。

 弾直樹(弾左衛門)は「漸次の解放」を考えていたという。「風采のいい者、あいさつのできる者から」というのは、著者の地の文であるが、どこかに典拠があるのだろうか。「あいさつのできる者」って、当たり前すぎるようだが、当時は、限られた人々の高級スキルだったのだ(いや、今でもそうかも)。

 結局、周囲との軋轢を最小限に留めるための方策は考慮されなかった。それは、被差別民の「解放」が、当事者の幸福よりも、無税地の解消→税収の増加や、欧米の視線を気にした体裁論に由来していたためではないか、と著者は指摘する。現代のさまざまな差別の解消を考える上でも、難しい問題だと思う。

 結果として起きた、さまざまな波紋。本書は各地(もっぱら西日本)で起きた「解放令反対一揆」から、まず1871年の美作津山一揆について語る。著者は「早い段階でのこの一揆は穢多村を襲撃していない」ことに注意を促している。騒動の発端が人別帳に穢多と並べて書かれたことだったとしても、大もとには、新政府のさまざまな政策に対する不信感があり、「異人を贔屓にする官吏」への不満が、異人同様に肉食の習慣があり、しかも解放令以降「傲慢ノ態度アル」部落民に対して噴出する。この構図は、いろいろと「現代的な問題」を含んでいるように思う。一方で、あまり「現代的な問題」に引きつけた解釈は危険かもしれない、とも思う。

 それにしても、のちのちまで影響する「近代における、農民と部落の対立構造がこの時点でくっきりと刻まれた」というのは、悲惨だなあ。じゃあ「漸次の解放」政策を取っていたら、こうはならなかったんだろうか。

 津山一揆はおぼろげに聞いた記憶があったが、半月ほど後の筑前竹槍一揆は全く知らなかった。事件の発端は山奥だったが、混乱は博多に及び、一時は福岡県庁も占拠されたということにショックを受けた。やっぱり、明治維新=日本近代の誕生を、いまの学校教育は無味無臭化しすぎではないかと思う。こんなに血が流されているのに。

 最後に、さまざまな身分・境涯の人々――芸娼妓、香具師、虚無僧、乞胸、盲人、等々の解放が付録として触れられている。その豊かすぎる「被差別民」のカタログを見ながら、私たちが決別した「近世以前」が、どういう社会だったか、「近代」とは、本来、どうあらねばならなかったかを考えてしまった。


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