○竹内洋『革新幻想の戦後史』 中央公論社 2011.10
著者は1942年生まれ。佐渡島で育ち、1961年に京都大学に入学。短いサラリーマン生活を経て大学院に進学し、学園紛争このかたの大学キャンパスと知識人の風景をずっと見てきた。それゆえ、「自分史としての戦後史」を、忘れられかけた「革新幻想」の猛威(インフルエンザみたい)を解き口に描いたのが本書である。
第1章は、佐渡島出身の二人の政治家、有田八郎(1884-1965)と北吉(れいきち、1885-1961)を論じる。戦後、再軍備反対・憲法擁護を唱えた有田は「悔恨共同体」を代表し、再軍備賛成の北は「無念共同体」の代表と言える。講和条約の調印(1951年9月)直後の世論は、再軍備賛成のほうが多かった。ところが、1955年体制以後、第三の感情がせり出してくる。生活が豊かになれば、それでいいではないか、という「花(理念)より団子(実益)」感情である。「理念と方便の区別がつかない曖昧な戦後日本」が始まる直前に現役を退いた二人の政治家が、そっと追憶されている。
第2章は、1946年創刊の雑誌『世界』について。「悔恨共同体」を代表するメディアとして圧倒的な人気で迎えられたが、オールドリベラリストの関与で、一時、編集方針が不鮮明になる。編集長・吉野源三郎は、平和問題談話会を立ち上げ、日教組に食い込むことによって、購読数の倍増に成功する。面白いのは、日教組の平和運動への熱狂が、冷やかな目で描かれていること。「『平和教育』は『修身』や『教育勅語』『軍国主義教育』の罪を贖いながら、結果としてそれら戦前教育のシンボルの機能的等価物となった」。使命感を掻き立てるものなら何でもいいんだよなあ、教育者って。
第3章は、日教組と密接な関係を持つ「進歩的教育学者」(以下、本書では独特の用法で使われる)の牙城であった東大教育学部について。お家騒動記のような生々しさ。大学って、つくづく前近代的な組織だと呆れながら読んだ。しかし、その中にあって、独自路線を取る教育社会学講座が発生し、進歩的教育学者に憎まれながら、潮木守一さんみたいな実証的で堅実な学者を輩出する。このダイナミズムも、優秀な頭脳、強靭な個性の集まる大学という組織の面白いところ。
第4章、1953年の旭丘中学校(京都)事件。共産党の政治理念に偏向した教育が行われているとのクレームが保護者から申し立てられ、教育委員会が3人の教諭に異動を勧告する。しかし教諭らが転任を拒否したことから紛糾し、一時は、教員らの自主管理授業と教委の補習学校に、生徒が分裂する騒ぎとなる。ここでも著者は「民主主義を担う子ども」像が、戦中期の「少国民」像の反復であることに注意を促している。
第5章、福田恆存が『中央公論』1954年12月号に発表した論文「平和論の進め方についての疑問」は、「進歩的文化人」が蔑称や揶揄の対象になり始めるきっかけを作った。当初は猛反発の嵐で、保守反動と目された福田は、論壇から村八分にされたと語っている。でも、私は福田を読んでみたくなった。本章に紹介されている戯曲「解ってたまるか!」は、ものすごく面白そうだ。
第6章、小田実とべ平連。前章の最後に「進歩的文化人に引導を渡したのは、保守派からの進歩的文化人攻撃というよりも、進歩的文化人の鬼子であるノンセクト・ラジカルであった」という結論が示されてあり、本章はこれを補完する。サルトルの来日、三島由紀夫の自刃、全共闘運動の沸騰などが、慌ただしく回顧される。
第7章、著者は1960年代半ばに生命保険会社に就職する。そこで見たものは、アジビラ的なホワイトカラー疎外論とは全く異なる現実のサラリーマンの猛烈な仕事ぶり、近代経営学に基づく企画室や社長室の設立ブーム、複雑な専門知識を駆使できる「実務型知識人」のプレゼンスなど、「新しい知」の時代への地殻変動だった。しかし、2年ほどのサラリーマン生活を経て、大学院に戻ってみると、キャンパスには「わたしが会社で感じたような知の変容を感知するところはほとんどなかった」という。ここは、ひたすら苦笑。1960年代に実社会で起きていた知の変動が、半世紀遅れて、ようやく大学キャンパスに到達したのが、昨今の状況かもしれない。
第8章(終章)、石坂洋次郎。石坂作品が持つ、明るくスマートなモダニズムは、戦後世代の憧れを掻き立てた。そして、進歩的知識人の「革新幻想」は、大衆モダニズムの下支えによって成立していた。
著者は終章に「戦後日本の(見えない)宗教戦争」を図示する。近代主義という「市民宗教」は、罪悪・悔恨共同体、社会党、日教組に連結し、日本主義という「庶民宗教」は、無念・復興共同体、自民党、文部省に連結する。市民宗教は、戦後民主主義の公式カリキュラム(タテマエ)だったが、背後には、伝統主義という非公式カリキュラム(本音)が随伴していた。
ところが、庶民宗教としての日本文化を全く内面化していない日本人が登場する。1960年代以後に生まれた「新人類」がそれである。…って、私はその世代なのだが、竹内先生から見ると、われわれは「脱」日本人世代ないのかー。不満だが、否定できない感じもする。そして、庶民宗教という対抗軸が無くなってしまえば、市民宗教としての大衆モダニズムも、ただの大衆エゴイズムに堕落し、社会全体が「幻像としての大衆」に操られる状態が続いている。2009年の政権交代も、先日の大阪ダブル選挙も、そんな気配が濃厚だった。「劣化する大衆社会」の抜け道はどこにあるのだろう。
著者は1942年生まれ。佐渡島で育ち、1961年に京都大学に入学。短いサラリーマン生活を経て大学院に進学し、学園紛争このかたの大学キャンパスと知識人の風景をずっと見てきた。それゆえ、「自分史としての戦後史」を、忘れられかけた「革新幻想」の猛威(インフルエンザみたい)を解き口に描いたのが本書である。
第1章は、佐渡島出身の二人の政治家、有田八郎(1884-1965)と北吉(れいきち、1885-1961)を論じる。戦後、再軍備反対・憲法擁護を唱えた有田は「悔恨共同体」を代表し、再軍備賛成の北は「無念共同体」の代表と言える。講和条約の調印(1951年9月)直後の世論は、再軍備賛成のほうが多かった。ところが、1955年体制以後、第三の感情がせり出してくる。生活が豊かになれば、それでいいではないか、という「花(理念)より団子(実益)」感情である。「理念と方便の区別がつかない曖昧な戦後日本」が始まる直前に現役を退いた二人の政治家が、そっと追憶されている。
第2章は、1946年創刊の雑誌『世界』について。「悔恨共同体」を代表するメディアとして圧倒的な人気で迎えられたが、オールドリベラリストの関与で、一時、編集方針が不鮮明になる。編集長・吉野源三郎は、平和問題談話会を立ち上げ、日教組に食い込むことによって、購読数の倍増に成功する。面白いのは、日教組の平和運動への熱狂が、冷やかな目で描かれていること。「『平和教育』は『修身』や『教育勅語』『軍国主義教育』の罪を贖いながら、結果としてそれら戦前教育のシンボルの機能的等価物となった」。使命感を掻き立てるものなら何でもいいんだよなあ、教育者って。
第3章は、日教組と密接な関係を持つ「進歩的教育学者」(以下、本書では独特の用法で使われる)の牙城であった東大教育学部について。お家騒動記のような生々しさ。大学って、つくづく前近代的な組織だと呆れながら読んだ。しかし、その中にあって、独自路線を取る教育社会学講座が発生し、進歩的教育学者に憎まれながら、潮木守一さんみたいな実証的で堅実な学者を輩出する。このダイナミズムも、優秀な頭脳、強靭な個性の集まる大学という組織の面白いところ。
第4章、1953年の旭丘中学校(京都)事件。共産党の政治理念に偏向した教育が行われているとのクレームが保護者から申し立てられ、教育委員会が3人の教諭に異動を勧告する。しかし教諭らが転任を拒否したことから紛糾し、一時は、教員らの自主管理授業と教委の補習学校に、生徒が分裂する騒ぎとなる。ここでも著者は「民主主義を担う子ども」像が、戦中期の「少国民」像の反復であることに注意を促している。
第5章、福田恆存が『中央公論』1954年12月号に発表した論文「平和論の進め方についての疑問」は、「進歩的文化人」が蔑称や揶揄の対象になり始めるきっかけを作った。当初は猛反発の嵐で、保守反動と目された福田は、論壇から村八分にされたと語っている。でも、私は福田を読んでみたくなった。本章に紹介されている戯曲「解ってたまるか!」は、ものすごく面白そうだ。
第6章、小田実とべ平連。前章の最後に「進歩的文化人に引導を渡したのは、保守派からの進歩的文化人攻撃というよりも、進歩的文化人の鬼子であるノンセクト・ラジカルであった」という結論が示されてあり、本章はこれを補完する。サルトルの来日、三島由紀夫の自刃、全共闘運動の沸騰などが、慌ただしく回顧される。
第7章、著者は1960年代半ばに生命保険会社に就職する。そこで見たものは、アジビラ的なホワイトカラー疎外論とは全く異なる現実のサラリーマンの猛烈な仕事ぶり、近代経営学に基づく企画室や社長室の設立ブーム、複雑な専門知識を駆使できる「実務型知識人」のプレゼンスなど、「新しい知」の時代への地殻変動だった。しかし、2年ほどのサラリーマン生活を経て、大学院に戻ってみると、キャンパスには「わたしが会社で感じたような知の変容を感知するところはほとんどなかった」という。ここは、ひたすら苦笑。1960年代に実社会で起きていた知の変動が、半世紀遅れて、ようやく大学キャンパスに到達したのが、昨今の状況かもしれない。
第8章(終章)、石坂洋次郎。石坂作品が持つ、明るくスマートなモダニズムは、戦後世代の憧れを掻き立てた。そして、進歩的知識人の「革新幻想」は、大衆モダニズムの下支えによって成立していた。
著者は終章に「戦後日本の(見えない)宗教戦争」を図示する。近代主義という「市民宗教」は、罪悪・悔恨共同体、社会党、日教組に連結し、日本主義という「庶民宗教」は、無念・復興共同体、自民党、文部省に連結する。市民宗教は、戦後民主主義の公式カリキュラム(タテマエ)だったが、背後には、伝統主義という非公式カリキュラム(本音)が随伴していた。
ところが、庶民宗教としての日本文化を全く内面化していない日本人が登場する。1960年代以後に生まれた「新人類」がそれである。…って、私はその世代なのだが、竹内先生から見ると、われわれは「脱」日本人世代ないのかー。不満だが、否定できない感じもする。そして、庶民宗教という対抗軸が無くなってしまえば、市民宗教としての大衆モダニズムも、ただの大衆エゴイズムに堕落し、社会全体が「幻像としての大衆」に操られる状態が続いている。2009年の政権交代も、先日の大阪ダブル選挙も、そんな気配が濃厚だった。「劣化する大衆社会」の抜け道はどこにあるのだろう。