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見もの・読みもの日記

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援交から亜細亜主義へ

2004-09-27 08:45:47 | 読んだもの(書籍)
○宮台真司『亜細亜主義の顛末に学べ』実践社 2004.9

 宮台真司は、むかし、教育論とか若者論を何冊か読んだが、あまり共感できなかったので、その後はずっと放っていた。最近、イラクや北朝鮮問題など「大文字の政治」に関する発言が目に入るようになり、ちょっと気になる存在になっていた。

 このひとは頭がいい。言いたいことは理路整然としていて、よく分かる。

 近代(アメリカン・グローバライゼーション)の不利益は、過剰な流動性である。自分が自分でなくてもいい、人も場所も入れ替え可能な流動性が、人間存在を危機に曝している。これに対して「反近代」を掲げるのではなく、むしろ近代の徹底、合理性の徹底によって、過剰な流動性の非合理を糾弾し、文化的多様性とローカルな自立的相互扶助を護り抜くべきだ。実はこれこそ「亜細亜主義」の本義なのである。云々。

 巻末で、インタビューアーが「でも宮台さんは援助交際を擁護したり」「要するに流動性を加速させる、あるいは流動性に抗わないといった主張だったような感じがしますが?」と聞いている。

 著者は答える。「援助交際チョーOK」というのは、家父長制のダブルスタンダードを暴く戦略だった。しかし、その後、流動性に耐え切れず、「超越」に帰依する若者によるオウム事件が起き、援交女子校生も次々にメンヘラー(心の病)になっていく。それによって「どうも私の目算に間違いがあったことが、はっきりしてきたわけです」。

 そこで「『既得権益を温存する非流動性をぶち壊せ』という主張よりも、これを『過剰流動性から収益を上げる権益勢力の非流動性』への批判として引き継いだ上、『過剰流動性』自体を批判する方向へと力点を移したほうがいいと思うようになりました」。だから、力点は変わったけど、根本はブレてない、というのが著者の主張である。

 論理的には破綻がない。だけど、私にはついていけないところがある。援交女子高生たちの精神的な危うさを感じ取れず、(性愛の)過剰な流動性の中では生きていけないという、普通の人間の限界を理解できずに、彼らを煽ってきた責任は「目算違い」で済むのだろうか? そこに学者としての、いや、むしろ一個人としての痛みってないの?

 著者は、百年の計を立てて国家の舵取りをする「エリート」を重視する。その主張もよく分かるけど、多少の女子高生の「心の病」ぐらい「目算違い」で済ませるようなエリート主義なら、願い下げだと思う。

 「亜細亜主義」の持ち出し方もなあ。分析は細緻なんだけど、何かジャーナリスティックに狙いすぎている感じがして、反感が先立つ。

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