○内田樹『邪悪なものの鎮め方』 バジリコ 2010.1
「邪悪なもの」というのは、悪魔とか吸血鬼かとゾンビとか、ホラー映画でおなじみの異形の者どもを指すわけではない。常識的な判断や生活者としての倫理が無効になる状態、「どうしていいかわからないけど、とにかくえらいことになっている」状況をいう。そう聞いて(読んで)胸に手を当てて考えてみると、あるある、と思う。現代人の多くは、日々「邪悪なもの」と対決に神経をすり減らしているのではないか。では、そんな状況から生還するには、どうしたらいいか。著者は「まえがき」で、さっさとその答えを明かしてしまう。「私自身のみつけた答えは『ディセンシー』(礼儀正しさ)と『身体感度の高さ』と、『オープンマインド』ということでした」と。
私が味わい深く感じたのは、ここに「礼儀正しさ」が入っていること。多様な人々が共生する「社会」を生き抜くために必要なのは、勇気よりも信念よりも「礼儀」なのだ。この三要件に、いくばくかの共感、あるいは興味を感じたら、本書は読んでみる価値がある。以下の本文は、この答えをめぐって、具体的な各論が展開されていると思えばよい。たとえば、阪神淡路大震災当時、著者の勤務先の大学で、「きわめて適切なふるまい」をした人々と、そうでない人々。「ときには、全体を俯瞰し、最適解だけを選び続けるスマートネスを断念しないと身体が動かないという局面がある」というのは至言だと思う。
「邪悪なもの」に捉われた状態だということに、本人が気づいていない場合もある。「アメリカの呪い」論は面白いなあ。「日本は四等国である」「日本人の精神年齢は一二歳である」という、アメリカがかけた呪縛を、今も日本人は信じており、アメリカ(またはアメリカと同じくらいの大国)に「一人前」と認められることによってしか、この呪いは解けないと思い込んでいる。悲しいのは、アメリカは日本に呪いなんてかけた気がないことだ。この場合、「邪悪なもの」はどこにいるのかな。日本人の幻想の中にだけいるのかしら。
「少子化問題」も「生活条件の切り下げ」も、見方を変えれば、別に問題ではない。「対等」を必須条件とする「親密圏」は、「家族」に替わるセーフティネットになり得るのか。「家族」の条件とは家族の儀礼を守ること(つまり、ディセンシー=礼儀正しさ)、それだけである。人間の共同体は個体間に理解と共感がなくても機能するように設計されているのである。こんな調子で、ウチダ先生は、私たちが「にっちもさっちもいかない」と思っている状況を、さらさらと解きほぐし、頑固な便秘のように腹の底に滞留していた「邪悪なもの」を払い清めて、流し去ってくれる。実に爽快。その「技」のキーワードは、やっぱり「まえがき」に書かれた3つの心構えに帰着するように思う。
あと、国の規模によるソリューションの違いを論じた「『内向き』で何か問題でも?」とか、「誰とでも友だちになれる」能力というのは、実際は「私が生き延びる可能性を減殺しかねない人間」を瞬時に検知し、回避できる能力のことだ、というのにも深く共感してしまった。時代のトレンドとかエッジとは無関係に、でも豊かに生きたいと考える人の心に沁みる本である。
「邪悪なもの」というのは、悪魔とか吸血鬼かとゾンビとか、ホラー映画でおなじみの異形の者どもを指すわけではない。常識的な判断や生活者としての倫理が無効になる状態、「どうしていいかわからないけど、とにかくえらいことになっている」状況をいう。そう聞いて(読んで)胸に手を当てて考えてみると、あるある、と思う。現代人の多くは、日々「邪悪なもの」と対決に神経をすり減らしているのではないか。では、そんな状況から生還するには、どうしたらいいか。著者は「まえがき」で、さっさとその答えを明かしてしまう。「私自身のみつけた答えは『ディセンシー』(礼儀正しさ)と『身体感度の高さ』と、『オープンマインド』ということでした」と。
私が味わい深く感じたのは、ここに「礼儀正しさ」が入っていること。多様な人々が共生する「社会」を生き抜くために必要なのは、勇気よりも信念よりも「礼儀」なのだ。この三要件に、いくばくかの共感、あるいは興味を感じたら、本書は読んでみる価値がある。以下の本文は、この答えをめぐって、具体的な各論が展開されていると思えばよい。たとえば、阪神淡路大震災当時、著者の勤務先の大学で、「きわめて適切なふるまい」をした人々と、そうでない人々。「ときには、全体を俯瞰し、最適解だけを選び続けるスマートネスを断念しないと身体が動かないという局面がある」というのは至言だと思う。
「邪悪なもの」に捉われた状態だということに、本人が気づいていない場合もある。「アメリカの呪い」論は面白いなあ。「日本は四等国である」「日本人の精神年齢は一二歳である」という、アメリカがかけた呪縛を、今も日本人は信じており、アメリカ(またはアメリカと同じくらいの大国)に「一人前」と認められることによってしか、この呪いは解けないと思い込んでいる。悲しいのは、アメリカは日本に呪いなんてかけた気がないことだ。この場合、「邪悪なもの」はどこにいるのかな。日本人の幻想の中にだけいるのかしら。
「少子化問題」も「生活条件の切り下げ」も、見方を変えれば、別に問題ではない。「対等」を必須条件とする「親密圏」は、「家族」に替わるセーフティネットになり得るのか。「家族」の条件とは家族の儀礼を守ること(つまり、ディセンシー=礼儀正しさ)、それだけである。人間の共同体は個体間に理解と共感がなくても機能するように設計されているのである。こんな調子で、ウチダ先生は、私たちが「にっちもさっちもいかない」と思っている状況を、さらさらと解きほぐし、頑固な便秘のように腹の底に滞留していた「邪悪なもの」を払い清めて、流し去ってくれる。実に爽快。その「技」のキーワードは、やっぱり「まえがき」に書かれた3つの心構えに帰着するように思う。
あと、国の規模によるソリューションの違いを論じた「『内向き』で何か問題でも?」とか、「誰とでも友だちになれる」能力というのは、実際は「私が生き延びる可能性を減殺しかねない人間」を瞬時に検知し、回避できる能力のことだ、というのにも深く共感してしまった。時代のトレンドとかエッジとは無関係に、でも豊かに生きたいと考える人の心に沁みる本である。