〇坂井孝一『承久の乱:真の「武者の世」を告げる大乱』(中公新書) 中央公論新社 2018.12
『応仁の乱』に始まる中公新書の「乱」シリーズ(?)、時代を遡って、ついに承久の乱(1221)に到達した。世間的な認知度はよく知らないが、私にとっては、南北朝・室町時代の「乱」よりは、ずいぶん親しみを感じるタイトルである。
「承久の乱」といえば、朝廷の最高権力者たる後鳥羽院(1180-1239)が鎌倉幕府を倒す目的で起こした反乱というのが一般的なイメージであるが、本書はこの通念を払拭し、研究の進展に即した「承久の乱」像を描きたいという抱負がはじめに述べられている。それで、鎌倉幕府成立くらいから話が始まるのかと思ったら、なんと平安時代中期、後三条による院政の成立から始まる。後三条は譲位から半年ほどで死去し、白河院によって本格的な院政が確立される。これが中世の幕開きなのだ。院の近臣、武士の台頭、寺社の強訴。治天の君による知と財の独占、豪奢にして多彩な文化。いや私、この時代の記述を期待していたわけじゃないんだけどな…と思いながら、嫌いじゃないので楽しく読んだ。
寿永2年7月、平家一門が安徳天皇を連れて都落ちしたため、後白河院は亡き高倉の四宮・尊成(たかひら)親王を践祚させた。後鳥羽天皇の誕生である。建久9年1月、19歳のとき、為仁親王(土御門)に譲位して院政を開始すると、後鳥羽は「人並み外れたマルチな才能」を開花させた。和歌・音楽・武芸・太刀作り・蹴鞠・宮廷儀礼など、多芸多才ぶりを詳しく紹介していて楽しい。歴史学でなく文学研究の成果もきちんと参照してくれている。しかし著者が「こうした面(諸芸能や学問に秀でた有能な帝王)に考慮が払われることはほとんどない」と書いているのはどうだろう。私にとって後鳥羽院は、何をおいても「歌人」帝王なのだが、一般的な認識ではないのかしら。
続いて本書は、鎌倉幕府の三代将軍・源実朝について詳述する。ここでも著者は、悲劇の天才歌人とか、朝廷と幕府、源氏と北条氏の間で苦悩したという実朝のイメージを覆したいという趣旨のことを述べている。後鳥羽と実朝の関係が悪くなかったという見方に反論はないが、しかし、やっぱり実朝はよく分からない人だと思った。
健保7年(1219)1月、実朝暗殺。このことが後鳥羽と鎌倉幕府の協調関係に亀裂を与え、後鳥羽を挙兵に向かわせた。ただしその目的は「北条義時追討」だった。後鳥羽が目指したのは、義時を排除して幕府をコントロール下に置くことであって、倒幕でも武士の否定でもなかった、と本書は説く。なるほど。それはいいとして、乱の勝因・敗因分析で、鎌倉方は適材適所で総合力を発揮したのに対し、京方は後鳥羽院のワンマンチームで実戦経験に乏しいイエスマンしかいなかったから、というのは、ちょっと結論ありきの感じがする。しかし名演説で御家人たちをまとめた尼将軍・北条政子はカッコいい。このとき64歳? こんな晩年に一世一代の大勝負が待っているとは思っていなかっただろうなあ。
なお『吾妻鏡』によれば、勝負の大勢が決したあと、後鳥羽院は今回の乱が「謀臣」の企みで起きたと主張したそうだ。著者は、後鳥羽の祖父の後白河も、頼朝追討の院宣を発給した後で同様の言い訳をしていることを挙げ、この二人には共通点が多いと指摘している。まあしかし、後白河が乱世を泳ぎ切ったのに後鳥羽がしくじったのは、当人の資質の差というより、時代が変わったということだろう。戦後処理として、後鳥羽・順徳・土御門の三上皇は配流、仲恭天皇は廃位(追諡は明治になってから)。そして、日本の歴史上はじめて、幕府が新たな天皇と上皇を決定する事態となった。天皇と同時に上皇(後高倉院)を決めることが必須だったというのが興味深い。後高倉院は天皇位についていないのに…。Wikiを読むと実に苛酷で不遇な運命。彼は上西門院統子さまに養育されたのだな。
もうひとつ興味深いのは、承久の乱の合戦の記憶が『平家物語』等の軍記物語に紛れ込んでいるという指摘。承久の乱でも激戦となった宇治川合戦はその一例である。乱直後の1220年代に『六代勝事記』、1230年代に『承久記』が書かれ、ほぼ同時期の1230-40年代に『保元物語』『平治物語』『平家物語』の原型がつくられたのである。文学史の範疇に入る作品は知ってたけど、そうでない資料の存在は初めて知った。
私は後白河が大好きだが、後鳥羽も嫌いじゃない。私が後鳥羽院を知った最初のきっかけ、丸谷才一さんの『後鳥羽院』を久しぶりに読み返したくなった。そして、また隠岐に行ってみたくなった。
『応仁の乱』に始まる中公新書の「乱」シリーズ(?)、時代を遡って、ついに承久の乱(1221)に到達した。世間的な認知度はよく知らないが、私にとっては、南北朝・室町時代の「乱」よりは、ずいぶん親しみを感じるタイトルである。
「承久の乱」といえば、朝廷の最高権力者たる後鳥羽院(1180-1239)が鎌倉幕府を倒す目的で起こした反乱というのが一般的なイメージであるが、本書はこの通念を払拭し、研究の進展に即した「承久の乱」像を描きたいという抱負がはじめに述べられている。それで、鎌倉幕府成立くらいから話が始まるのかと思ったら、なんと平安時代中期、後三条による院政の成立から始まる。後三条は譲位から半年ほどで死去し、白河院によって本格的な院政が確立される。これが中世の幕開きなのだ。院の近臣、武士の台頭、寺社の強訴。治天の君による知と財の独占、豪奢にして多彩な文化。いや私、この時代の記述を期待していたわけじゃないんだけどな…と思いながら、嫌いじゃないので楽しく読んだ。
寿永2年7月、平家一門が安徳天皇を連れて都落ちしたため、後白河院は亡き高倉の四宮・尊成(たかひら)親王を践祚させた。後鳥羽天皇の誕生である。建久9年1月、19歳のとき、為仁親王(土御門)に譲位して院政を開始すると、後鳥羽は「人並み外れたマルチな才能」を開花させた。和歌・音楽・武芸・太刀作り・蹴鞠・宮廷儀礼など、多芸多才ぶりを詳しく紹介していて楽しい。歴史学でなく文学研究の成果もきちんと参照してくれている。しかし著者が「こうした面(諸芸能や学問に秀でた有能な帝王)に考慮が払われることはほとんどない」と書いているのはどうだろう。私にとって後鳥羽院は、何をおいても「歌人」帝王なのだが、一般的な認識ではないのかしら。
続いて本書は、鎌倉幕府の三代将軍・源実朝について詳述する。ここでも著者は、悲劇の天才歌人とか、朝廷と幕府、源氏と北条氏の間で苦悩したという実朝のイメージを覆したいという趣旨のことを述べている。後鳥羽と実朝の関係が悪くなかったという見方に反論はないが、しかし、やっぱり実朝はよく分からない人だと思った。
健保7年(1219)1月、実朝暗殺。このことが後鳥羽と鎌倉幕府の協調関係に亀裂を与え、後鳥羽を挙兵に向かわせた。ただしその目的は「北条義時追討」だった。後鳥羽が目指したのは、義時を排除して幕府をコントロール下に置くことであって、倒幕でも武士の否定でもなかった、と本書は説く。なるほど。それはいいとして、乱の勝因・敗因分析で、鎌倉方は適材適所で総合力を発揮したのに対し、京方は後鳥羽院のワンマンチームで実戦経験に乏しいイエスマンしかいなかったから、というのは、ちょっと結論ありきの感じがする。しかし名演説で御家人たちをまとめた尼将軍・北条政子はカッコいい。このとき64歳? こんな晩年に一世一代の大勝負が待っているとは思っていなかっただろうなあ。
なお『吾妻鏡』によれば、勝負の大勢が決したあと、後鳥羽院は今回の乱が「謀臣」の企みで起きたと主張したそうだ。著者は、後鳥羽の祖父の後白河も、頼朝追討の院宣を発給した後で同様の言い訳をしていることを挙げ、この二人には共通点が多いと指摘している。まあしかし、後白河が乱世を泳ぎ切ったのに後鳥羽がしくじったのは、当人の資質の差というより、時代が変わったということだろう。戦後処理として、後鳥羽・順徳・土御門の三上皇は配流、仲恭天皇は廃位(追諡は明治になってから)。そして、日本の歴史上はじめて、幕府が新たな天皇と上皇を決定する事態となった。天皇と同時に上皇(後高倉院)を決めることが必須だったというのが興味深い。後高倉院は天皇位についていないのに…。Wikiを読むと実に苛酷で不遇な運命。彼は上西門院統子さまに養育されたのだな。
もうひとつ興味深いのは、承久の乱の合戦の記憶が『平家物語』等の軍記物語に紛れ込んでいるという指摘。承久の乱でも激戦となった宇治川合戦はその一例である。乱直後の1220年代に『六代勝事記』、1230年代に『承久記』が書かれ、ほぼ同時期の1230-40年代に『保元物語』『平治物語』『平家物語』の原型がつくられたのである。文学史の範疇に入る作品は知ってたけど、そうでない資料の存在は初めて知った。
私は後白河が大好きだが、後鳥羽も嫌いじゃない。私が後鳥羽院を知った最初のきっかけ、丸谷才一さんの『後鳥羽院』を久しぶりに読み返したくなった。そして、また隠岐に行ってみたくなった。