〇藤尾慎一郎『日本の先史時代:旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす』(中公新書) 中央公論新社 2021.8
私の場合、日本の歴史で一番興味がないのが先史時代である。博物館に行っても、だいたい先史時代をすっ飛ばすのだが、たまにはいいかなと思って読んでみた。本書は、日本の先史時代を「移行期」という視点から通史的に考えたものである。
旧石器時代から縄文時代への移行の指標は、土器、竪穴住居、石鏃と土偶(狩猟とまつり)とされている。かつて土器の出現は1万2000年前、寒冷期が終わって温暖な時代となり、それに適応した生活様式が始まった時期と一致すると考えられていたが(≒たぶん私が小中学校で習った歴史)、1980年代以降、加速器を使った炭素十四年代測定の厳密化により、土器の出現は1万6000年前まで遡ることになった。最も古い土器は青森や帯広で見つかっており、サケなどの魚油採取に使われたと推測されている。一方、これには遅れるが、九州南部では、ドングリなどの堅果類を食料とした暮らしが本格的に始まり、土器の使用が急激に増加した。最も古い竪穴住居は鹿児島や栃木で見つかっている。
石鏃(弓矢の使用)は温暖化による動物相の変化に対応したものだ。土偶は何らかのまつりで使用されたものと考えられる。人々が定住化し、ずっと同じ顔ぶれで暮らすようになると、ストレスや軋轢が生じ、それを緩和する装置としてまつりが必要となったのではないか、という著者の推測はちょっと面白い。同じ日本列島の中でも、指標の出現年代や展開の仕方が、地域によって異なることが整理されており、とても納得がいった。
次に縄文時代から弥生時代へ。かつては弥生式土器が弥生時代の指標と考えられていたが、1970年代に指標を水田稲作に変えようという動きが起きる。そして水田稲作の始まりと定着にも地域差があることが分かってきた。最も早く水田稲作を始めたのは九州北部で、複数回の洪水で水田が砂に埋没しても、一度始めた米づくりを継続した。中部・関東では、まずアワ・キビ栽培が始まり、500年くらいかけて水田稲作へ移行した。東北北部では、前3世紀や前4世紀の水田跡が見つかっているが、気候変動によって農耕民は姿を消し、最終的に南下してきた続縄文文化圏に吞み込まれる。この東北北部の水田稲作をどう考えるか、水田稲作を行っていれば弥生文化なのか、というのは重要な論点である。
弥生時代から古墳時代へ。古墳時代は前方後円墳の出現をもって始まる。では、前方後円墳とは何か。学術的には「弥生時代の墳丘墓の地域性を断ち切った画一性を持ち、規模や副葬品の量を飛躍的に拡大させた大型の前方後円形の墳丘を持つ墓」と定義される。弥生時代の各地に存在した墳墓の要素を統合し、新たに創造された墓制なのだ。たとえば、豪華な副葬品は九州北部に由来する。鏡・剣・玉という、のちの三種の神器につながる組合せの副葬品を有する弥生厚葬墓もあるという。巨大な墳丘は山陰や吉備で現れる、など。
副葬品のなかでも注目されるのが中国鏡だ。弥生時代には、鏡を共有することに集団を統合する機能があったが、古墳時代になると、鏡の大きさや枚数で保有者が格付けされるようになる(へえ!)。鉄剣・鉄刀も弥生時代から継続して出現する資料だが、その分布を見ると、副葬品の種類によって物流ルートが異なっていたことが分かる。また、それまで地域性が強かった土器も、古墳時代には広域に移動する様子が見られ、列島に「自由で開かれた」交易ネットワーク(韓半島や続縄文文化圏ともつながる)が存在したことを感じさせる。
本書には、著者の考える各時代の始まりが、具体的な年代とともに提示されているが、そこは省略する。私は、本書に示された各時代の暮らしぶりと、そこから想像される人々の思想や信仰が、ここまで分かるのか、という感じで面白かった。たとえば、土偶は水田耕作が始まると姿を消し、新たに男女の表象からなる木偶が現れるという指摘をメモしておく。
終章には、北海道・東北北部の「北のくらし」と奄美・沖縄の「南のくらし」についてまとまった記述があり、特に北の「続縄文」に関する記述が興味深かった。道央はサケ、道南はヒラメ(大きい個体が多い)、道東はメカジキへの依存が高かったという。また、かつては北海道人は水田稲作を行いたかったが寒冷な気候のため叶わなかったと説明されてきたが、現在では、漁撈中心の生活のほうが効率的だったと考える。そりゃそうだよね。
ぼんやりと画一的だった先史時代のイメージが、だいぶ明らかになった。なお、著者は国立歴史民俗博物館の「先史・古代」展示リニューアル(2019年3月→2019年8月参観)に関わられた方で、本書は展示の新書版であることが「おわりに」に示されている。