〇森田貴子『三野村利左衛門と益田孝:三井財閥の礎を築いた人びと』(日本史リブレット 人) 山川出版社 2011.11
今年の大河ドラマ『青天を衝け』を面白く見ている。これまでのところ、だいたい知っている登場人物ばかりだったが、先日8月22日に登場した三野村利左衛門は初めて聞く名前だった。演じるのがイッセー尾形さんだし、これは重要な役どころだろうと思って気になっていたら、書店で本書が目について買ってしまった。幕末から明治にかけて、三井発展の基礎をつくった三野村利左衛門と益田孝の二人を紹介したものである。
そもそも三井の家祖は越後守高安といい、近江国六角佐々木氏の家臣だったが、長男の高俊が伊勢松坂で商いを始め、その長男の俊次は江戸で小間物店を開いた。高俊の四男・高利も兄の店に入り、商売を繁盛させていった。呉服店と両替店を開き「現金掛値なし」の商売を始めたのも高利である。高利の子どもたちは、財産を一族の共有として「同苗(同じ苗字=三井家)一致」の原則のもとに維持する家法を定めた。私は三井記念美術館で三井家の美術コレクションを何度か見ているので、ここに登場する人々の名前には少し親しみがあった。
さて、三野村利左衛門(1843-1914)が三井に入ったのは、慶応2/1866年のことである。それ以前の経歴には諸説あり、不明な点が多いそうだ。幕末の三井は、幕府から次々に御用金を命じられ、取り締り不足・突合せ不足などで多額の滞り金や損失を生じていた。そこで新たに公金請払御用などを扱う御用所を設け、責任者として三野村を招いたのである。三井は幕府側と倒幕派のどちらに与するか迷っていたが、最終的に倒幕派に加勢し、軍資金と兵糧米の調達を担い、維新政府の財政・金融機構の中に基盤を固めていった。ただし最初から三井の地位が盤石だったわけではなく、小野組、島田組などライバルの豪商・両替商が破産して姿を消す中で、三井は危ない橋を渡り切り、明治9/1876年には日本最初の私立銀行である三井銀行を開業する。
三井は、政府の業務を営業の中心とするため、江戸時代からの組織の改組に取り組んだ。はじめに呉服業の分離(三越の誕生)。次に京都の大元方(おおもとかた:三井経営の最高機関)に代わる東京大元方の新設。そして資産と負債の状況を明らかにし、三井組の資財を三井家から切り離して三井組の所有とした。現代の企業のあり方からすれば当たり前の姿だが、伝統ある旧組織の改組は、新組織を一から作る以上に困難が大きかったものと想像する。三野村没後に三井家同苗の不満が噴出し、揺り戻しもあったが、改革は無にならなかった。「この改革によってこそ、三井は以後の経済界における確固たる地位と発展の基礎を築くことができた」と著者は評価している。三野村が無学で、文字も知らなかった(ほんとか?)というエピソードも興味深い。
益田孝(1848-1938)は、明治9/1876年に三野村に説得されて三井に入り、「海外海内を論ぜず、諸商品を売捌き、及び買取して手数料を得る」ために新たに設立された三井物産の経営を全面的に委託された。同社は三池炭の販売を一手に担い、のちに三池炭鉱(炭礦)の払い下げを受けた。また日本において機械制大工場を発展させた紡績業の原料となる綿花(棉花)の輸入、紡績機械の輸入、生糸・綿糸・綿布の輸出に重要な役割を占めた。
明治20年代から明治末年にかけて、三井ではさらなる組織改革の検討が進む。益田がロスチャイルド家など欧米の旧家を視察し、名家を長く維持する方法について意見を求めているのが興味深い。その結果、営業組織は「有限責任株式会社」とし「定款」を定め「営業は総て専門に依り」「業務の執行を若干の重役に委任」するなど、もっともな提言を行っている。しかし現代でも、こうしたことが徹底されていない同族経営企業は多いんじゃないかな…と思う。
益田の意見書に基づき、明治42/1909年に三井合名会社が設立され、三井家同族11人が社員となって共有財産を所有し、傘下の事業を特殊会社として統括することになった。同時に三井銀行と三井物産は、三井家が出資する株式会社となった。三井家の家政と事業の分離、資本の所有と経営の分離が達成されたわけである。
企業経営に全く不案内な私にも読める、興味深い三井の歴史だった。このあと、昭和に入ると財閥化とその解体という激動が待っているわけだが、それはまた別の機会に読んでみたい。
※追記:三野村が興した会社の事務所だった「三野村ビル」が清澄白河に残っているらしい。近所なので、そのうち見てこよう(参考:江東おでかけ情報局)。