「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

微妙な差を嗅ぎ分ける楽しさ

2024年06月01日 | 独り言

このブログでもたびたび触れているように、我が家のオーディオにとって「ネット・オークション」は必須のツールだが、その一方では かってのオーディオ機器 の栄枯盛衰を窺い知るのにも大いに役立っている。

たとえば先日のオークションでのことだった。

まずはクラシック音楽愛好家なら誰もが一度は憧れるタンノイの「オートグラフ」が出品されていた。音楽&オーディオの先達として有名な「五味康介」さんが愛好されたことでもよく知られている大型スピーカーである。

オークションのタイトルは「Autograph HPD385A +エンクロージャー 進工舎製国産箱」だった。

          

ご覧のとおり凝ったツクリの堂々たるスピーカーだが、落札価格となると信じられないほどの安いお値段で「39万2千円」だった。

ユニットが後期のものだし、国産箱というハンディがあるとはいえ、定価となると確実に3倍以上はする代物である。

そして、あまり日をおかずして出品されていたのが同じオートグラフでも「ミニ」の方だった。

        

見るからに「小振り」だが、この落札価格となると「25万1千円」だった。

大型とミニの差は、そりゃあ個人ごとの「好き嫌い」があるだろうし、今の自分ならおそらくミニの方を選ぶが、お値段の差がたったの「14万円」ということに恐れ慄(おのの)いてしまった(笑)。

大型スピーカーは人気がない!

このことからいったい何が推し量られるのか・・、「桐一葉落ちて天下の秋を知る」ではないが、勝手に類推させてもらおう。

1 マンション・オーディオの蔓延

今や都会は高層マンションだらけといっても過言ではないほどだが、そうすると大型スピーカーを置こうにもあまりスペースがない、そして隣近所に遠慮して大きな音を出すわけにもいかずせっかくの大型機能が生かせない。

と、いったところかな~。

人的交流を含めて豊かな文化と便利さが享受できるものの居住スタイルが限定されがちな都会生活
、その一方スペースに恵まれた居住スタイルの機会が多いものの文化程度が貧弱な地方の生活のどちらがいいか、それぞれ個人毎の価値判断に委ねられるところだろう。

もちろんブログ主の場合は「音楽&オーディオ」至上主義者なので後者を無意識のうちに自然に選んだが、今となってみるとやはりときどき一抹の淋しさ
にかられるのは否定できませんなあ・・(笑)。

2 オーディオの衰退

先日、オーディオ仲間と話していたところオーディオ専門誌「無線と実験」の「(オーディオ機器を)売ります買います」欄で「遺品整理のため」という言葉がやたらに多くなったとのことだった。

中には「タダで進呈します。」とあったりもして、今は亡きご主人のオーディオ道楽の後始末に遺族がほとほと困っている様子が散見されると言っていた。

思わず「我が家もいずれ同じようなことが・・・」と、身につまされたことだった(笑)。

1970年代のオーディオ全盛期を体験した年齢層は今や高齢者軍団と化しており、本格的なオーディオ愛好家は高齢者に集中しているといっても過言ではないが、これからも続々と途切れることなく鬼籍に入っていくのだからオーディオ人口が減るばかりである。

何しろ若い人たちはオーディオに価値を見出さないのが大半なので補給が追い付いていかない

優れたオーディオシステムで音楽を聴くと音楽観が一変するほどの衝撃を受けると思うんだけどなあ・・、とはいえ、もはやそういう機会も少なくなった。

オーディオショップで聴く音はいくら豪華なシステムでも所詮は借り物の音で家庭でよくチューニングされた音には到底及ぶべくもないだろう。

こういう負の連鎖を断ち切る方法はないものかと、身の程知らずながらつい考えてしまう


3 クラシック音楽の衰退

その昔「ブルーノ・ワルター」という指揮者がいたが、当時次のような警告を発していた。何度も引用したので「くどい」と思われる方もいるだろうが「反復・継続は力なり」なので再度掲載させてもらおう。

「いまや芸術に対して社会生活の中で今までよりも低い平面が割り当てられるようになって、その平面では芸術と日常的な娯楽との水準の相違はほとんど存在しない。

本来芸術作品が持っている人の心を動かし魂を高揚させる働き
に代わり、単なる気晴らしとか暇つぶしのための娯楽が追い求められている。

これらは「文明」の発達によりテレビやラジオを通じて洪水のように流れ、いわゆる「時代の趣味」に迎合することに汲々としている。

こうなると文明は文化の僕(しもべ)ではなくて敵であり、しかもこの敵は味方の顔をして文化の陣営にいるだけに危険なのだ。」

以上のとおりだが、残念なことにクラシック音楽の地盤沈下は留まることを知らない。1950年代前後が黄金時代だとすると、取り巻く環境が激変していて刺激性があり誘因力の強い娯楽が目白押し~。

それに、別にクラシックを聴かなくても生きていけるし、賢くなれるわけでもないし、お金持ちにもなれるわけでもないが、人生を豊かに彩ってくれることだけはたしかである。

その流れで、音楽通の「村上春樹」さんの言葉を紹介してみよう。

「僕にとって音楽というものの最大の素晴らしさは何か?

それは、いいものと悪いものの差がはっきり分かる、というところじゃないかな。大きな差もわかるし、中くらいの差もわかるし、場合によってはものすごく微妙な小さな差も識別できる。

もちろんそれは自分にとってのいいもの、悪いもの、ということであって、ただの個人的な基準に過ぎないわけだけど、その差がわかるのとわからないのとでは、人生の質みたいなのは大きく違ってきますよね。

価値判断の絶え間ない堆積が僕らの人生をつくっていく。

それは人によって絵画であったり、ワインであったり、料理であったりするわけだけど、僕の場合は音楽です。

それだけに本当にいい音楽に巡り合ったときの喜びというのは、文句なく素晴らしいです。極端な話、生きてて良かったなあと思います。」

以上のとおりだが、これを勝手ながら我が家に当てはめてみよう・・、

このブログの読者(何と昨日31日のアクセスは過去最高の1626件に達した・・)の中には、

「そんなに多くの魔笛のCDやさらには沢山の真空管アンプやスピーカーを持っていてどうすんの?」と「懐疑と侮蔑の眼」で見ておられる方がきっといらっしゃるに違いない・・、その答えの一つとして
「それぞれの微妙な差を嗅ぎ分けるのが楽しみなんです」に、ご賛同していただくわけにはいくまいか・・(笑)。



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