最近、午後のウォーキングのときに眼がかゆくなったり、鼻水や「くしゃみ」の連続で、どうやら花粉症のようだ。
ようやく春めいてきて今年の冬も峠を越した様子。このまま終わってくれれば、明らかに「暖冬」そのもので日頃から心臓血管に問題を抱えている身にとっては大助かりだった。
これで、ますます「音楽&オーディオ」が楽しめる~(笑)。
さて、人間が何か自分の意思を反映させようとしたらどういう方法があるんだろう。
思いつくのはまず「しゃべる」、そして「表情と身振り」、さらには「書く」ぐらいかな。
通常「表情と身振り」は「しゃべる」と併用されるケースが多いので結局「しゃべる」と「書く」に収斂されるといっても間違いは無かろう。
どちらも大切だが日常生活や仕事においては「しゃべる」方が圧倒的に優位で、「書く」は比較的必要とされないのは周知のとおり。
「女性は耳で恋をする、男性は目で恋をする」とは、「女性は口説き文句に弱い、男性は美人に弱い」という意味で、現役時代の洒脱な女性上司からじかに聞いた言葉だが、やっぱり「しゃべる=口説く」のがうまい男性は「もて方」も違うような気がする。
したがって長~い人間の進化の過程では「しゃべる」能力の優勢な遺伝子の数が増えるのは自明の理だから、必然的に該当する人口の比率が増しているのは疑いないところだろう。
ただし、これまでの人生を振り返ってみると「しゃべる能力」と「書く能力」の両方に長けた人に出会うことはめったになかったような記憶がある。
つまり「しゃべる」のが巧い人は、「書く」のが苦手で、逆に「書く」のが巧い人は「しゃべる」のが下手といった具合。もちろん、両方とも冴えない人もいることはいるが(笑)。
具体的な例を挙げるとずっと以前のこと、作家の「城山三郎」さん(故人)の講演を事務局の一員として設定したことがあり、実際に拝聴したことがあるが、小さな抑揚のないボソボソといった話し方で、内容の方もあまり記憶に残らなかった。
これほどの大作家でもこの程度の「しゃべり」かと、驚いたと同時に「天は二物を与えない」ものだと、妙に安心感を覚えたことを記憶している。
エッ、安心感とはどういう意味?
実は、かくいう自分も「書く」のはあまり苦にならないが「しゃべり」は苦手なタイプなのである(笑)。
たとえば1対1の対面ではそれほどでもないが、不特定多数が相手ともなるともうダメ。
よくもまあ、こんなことで長いこと宮仕えが務まったものだと自分を褒めてやりたいくらいだが、結局”虚勢”でも通用する小さな舞台だったということだろう。
いずれにしても、来し方「しゃべり」のうまい人が「うらやましくて」仕方がなかったが、こうして今のような身分になってみると「しゃべり」の機会は家族内に限られてきてほとんど無くなり、「書く」ことの比重の方が圧倒的に増してきている。
たとえば始めてから12年が過ぎたブログ。
「文章が巧い」なんて口が裂けても言うつもりはないし、誰からも言われたこともないが(笑)、「書く」ことが苦にならないことはたしかである。
マイナーな分野のブログでも12年も続くと1日当たり900人ほどの読者がアクセスしてくれるし、興味を持って読んでもらえるのであれば、ささやかながらも社会に役立っているかもしれず、日常生活に張りを与えてくれるのはとてもありがたいこと。
そういうわけで、晩年になると「しゃべる」よりも「書く」方がむしろ「得」かもしれないなんて、この頃は勝手に思い直している次第。
しかし、これも根本的には「ネット時代到来」のおかげだろう。
誰もが簡単に情報発信し、そして取得できるのだからまったく夢のような時代が来たものだ。
最後に、文中に登場した城山三郎さんのことだが、著書「落日燃ゆ」(福岡出身の宰相「広田弘毅」の生涯を描いた作品)は当時の愛読書だったので、エレベーターの中でちゃっかりご本人からサインをもらったのは事務局員の余得としていまだに記憶に残っている(笑)。
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