「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

オペラの学校

2015年09月11日 | 音楽談義

作家の吉村昭さんといえば全国津々浦々の図書館を巡って郷土資料を調べ尽くし、「戦艦武蔵」「桜田門外の変」など幾多の優れた歴史小説を書かれた方だが、その吉村さんによると図書館の充実度、たとえば蔵書数や館内の広さ、使いやすさなどは地域の文化レベルを如実に反映しているそうだ。

その点、我が「別府市立図書館」の何とも悲惨なこと!

人口がおよそ12万人、毎日の観光人口を含めるともっと膨れ上がるが、とてもそれにふさわしい図書館とは思えない。

それほど大きくもない古ぼけたビルの2階の1フロワーにおざなりに本が置かれているだけ、それに専用の駐車場もないので借りるときはいつも路上駐車である。駐車違反で捕まりたくないので、新刊本コーナーに直行して5分ぐらいであわただしく戻っているが、利用するたびにその繰り返し。

そのお粗末さの原因はといえば、つまるところ市民のニーズ(読書意欲)の低さに尽きるのだろう。ホテルや観光施設などのサービス業が多いせいか、本を読む暇が取れないとみえる(笑)。

市長や市会議員にしても選挙で図書館の充実を訴えたところで得票数に結びつかないものだからホッタラカシの悪循環が続いている。

それにひきかえ、隣町の人口わずか3万人足らずのH町の図書館は凄い。この3月から7月まで移転改築期間を経てこのたび新しい複合施設の2階に広々としたスペースのもとに開館。

借りる本数も従来の5冊から10冊まで一気にOKで、いちいち1冊ごとにチエックを受けるのではなくて、専用の台にまとめて10冊置くと自動的に機械が読み取ってくれる優れもの。おそらく全国でも最新式のシステムに違いない。

我が家からの距離もクルマで片道15分ぐらいだから、ほぼ10日おきに通っているお気に入りの図書館である。これだけ恩恵を受けているのだからH町に税金の一部を納入しなけばならない(笑)~。

9日(水)も目いっぱいの10冊を借りてきた。

          

こうして公開しても高尚な本ではないので、けっして自慢には当たらないだろうと思うが(笑)、この中で最初に手に取ったのが「オペラの学校」(ミヒャエル・ハンペ著)。

著者はオペラ演出家、ケルン音楽大学教授。表題の中に「学校」とあるように、先生(オペラの専門家)が生徒たちに教えるような調子で全編が貫かれている。

何といっても本書で一番印象に残ったのが「モーツァルト礼讃(らいさん)」に終始していることだった。

たとえば68頁。

「多くがモーツァルトからの剽窃(ひょうせつ)だ」と、オペラ“ばらの騎士”を観たある人が作曲家のリヒャルト・シュトラウス(1864~1949)に言いました。シュトラウスは平然と、“そうですよ、もっと良い人がいますか?”と答えました。

事実、モーツァルトは最高のオペラの師匠です。すべてを彼から学ぶことができます。彼に関しては“ごまかし”は利きません。オーディションでは歌手の長所も短所も数小節で分かってしまいます。」

といった調子。

次に、彼のオペラが持つ社会性に注目せよとの指示が72頁に出てくる。

たとえば、モーツァルトのオペラに必ずといっていいほど登場する下層階級の人物。いつも下積みのタダ働き同然なので高貴な人々に対して常に反感を抱いているが、その下層階級と上層階級との間でもたらされる何がしかの緊張感が彼のオペラの中で劇的な効果を生じている、とのこと。

そういえば大好きなオペラ「魔笛」にも、しがない“鳥刺し”のパパゲーノが貴族階級を皮肉る台詞が沢山出てくるが、このオペラは単に美しいメロディに満ちているばかりと思っていたが、こういう鋭い社会風刺の側面にも配意すべきだと改めて気付かされた。

ただし、モーツァルトの下層階級に対する眼差しは実に暖かい。パパゲーノや黒人奴隷のモノスタトスのアリアなどは滑稽さだけではなくて、ほのぼのとした優しさ、はかなさが漂っているのが不思議。

これは本書には載っていないがモーツァルトが当時の階級制度に対して常に不満を持っていたことはこれまでの彼の言動から明らかである。貴族や権力が大嫌いで、芸術家としての自分の才能に対するプライドがあり、大司教や貴族といった権威に対する反発心が人一倍強かった。

たとえば傑作オペラ「フィガロの結婚」に次のような一節がある。

「単に貴族に生まれたというだけで“初夜権”(結婚した花嫁の初夜を領主が奪う権利)を振り回す伯爵に対して、フィガロは「あなたは、それだけの名誉を手に入れるために、そもそも何をされた?この世に領主の息子として生まれてきた、ただそれだけじゃないか!!」と辛辣なセリフを投げかける。このオペラが当時、上演禁止になった所以である。

当時は現代からすると信じられないほどの階級社会だったことを彼のオペラを鑑賞するうえで忘れてはならないと思った。

最後にもう一つ。「音が多すぎる・・・・」(94頁)。

「音が多過ぎる、モーツァルト君、音が多過ぎますよ」と、皇帝ヨーゼフ二世は≪後宮からの誘拐≫の初演後にモーツァルトに言った。それに対してモーツァルトは「丁度それだけ必要なのです、閣下」と答えた。

皇帝の言わんとするところは「モーツァルト君、君のやり方はよろしくないですね。君は表現すべき多くの要素をオーケストラに委ねています。性格、状態、気分、表現の微妙な差異、それから無意識のことまでも、それらの要素は本来舞台上のオペラ歌手の役割です」だった。

これはオペラの本質にかかわる事柄でもある。そもそもオペラとは「音楽によって表わされる物語」だが、どんなオペラでも次のような問題点を孕んでいる。

すなわち「大切なのは話の内容か、音楽か?オペラ歌手とオーケストラのどちらが重要か?それらは補完しあうのか?どちらに優先権があり、、片方が完全に黙り込んでしまうのか?」というもの。

この相互関係は作曲家によって、オペラによって、そして場面によってさまざまだし常にその真意が汲み取られなければならない。

音符をまるで言葉や文字のように自由自在に操ったモーツァルトのことだから、舞台表現においても音楽重視となったことは容易に想像がつく。

全体的に以上のような内容だったがオペラに対する理解の促進に大いに寄与するもので非常にありがたい本だった。

ただし、本書の翻訳はひどい!

たとえば73頁に「臀部を蹴ったために大司教の召使まがいの職務を解任され・・・」とあるが、この「(大司教の)臀部を蹴った」の真実は(若かりしときに)大司教から解雇されたとき、まるで「戸口から追い出され、お尻に足蹴をくれた」みたいだとモーツァルト自身が手紙で嘆いた一節が由来なのでこれはまったく本末転倒だ。

それに加えて全体的に噛み砕いた文章でもないので非常に分かりづらかった。音楽家よりもむしろプロの翻訳家に任すべきだったろう。
 


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