「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

読書コーナー~「シューマンの指」~

2012年02月03日 | 読書コーナー

「奥泉 光」氏(1994年芥川賞)の著書「シューマンの指」(2010年10月)を一読したところ、久しぶりに作家による情熱的な音楽論に接した印象を受けた。

                               

「シューマンの曲はどれもそうだけど、一つの曲の後ろ、というか、陰になった見えないところで、別の違う曲がずっと続いているような感じがする、聴こえていないポリフォニーというのかな」(37頁)という言葉が、まるで通奏低音のように全編を貫いていく。

周知のように一昨年の2010年はショパンとシューマンの生誕200年だったが、世の中はショパン、ショパンと騒ぐばかりでシューマンは一顧だに(?)されなかったのはまだ記憶に新しい。

この風潮に抗するかのように、大のシューマンびいきでシューマンへの愛を語らせたら人後に落ちない奥泉氏は音楽ミステリを絡ませながらも本書の中で、ここぞとばかり「シューマン論」を展開する。

この「シューマン論」については生半可な人間が中途半端に要約するよりも、興味を覚えた方に限っては直接、本書を読んでもらう方がずっといいと思うので、このブログでは例によって、書評やあらすじは抜きにして本書の中から印象に残った言葉をピックアップしてみよう。

著者は早々と15頁で本書の主人公をして次のように述懐させる。「シューマンのピアノ協奏曲イ短調op54はモーツァルトによって豊かに開拓されたピアノ協奏曲のジャンルの中で最高傑作だが、実際に聴くこともなく30年の間、心の中で聴いてきた」

「鼓膜を震わせることだけが音楽を聴くことじゃない。音楽を心に想うことで僕たちは音楽を聴ける。音楽は想像の中で一番くっきりと姿を現す。耳が聴こえなくなって、ベートーヴェンはよりよく音楽を聴けるようになったんだ」

ウーム、これは「音楽鑑賞の本質的な問題」ではなかろうか。本書の中で一番心に響いた言葉で、実は自分にも大いに思い当たる節があるのである。

あれは忘れもしない、不本意な異動で冷や飯を食わされたときだったから、たしか35歳のときになるが、片道1時間半の長距離通勤の行き帰りの自動車の中でオペラ「魔笛」(モーツァルト)を聴く中、第二幕におけるタミーノ(王子)とパミーナ(王女)が仲直りするシーンで、音響空間の中に溶け入るように消えていく弦合奏を聴いているときに後頭部の一部がジーンと”痺れるような感覚”を覚えてしまい、どうもその感覚が日常生活の中でしばらく頭の中から消えて失くならず、どうかすると仕事中でさえもふと手を休めた時などにその弦合奏とともに”痺れるような感覚”が蘇ってきて困った(?)ことがあった。

「いい音楽」とはずっと後に尾を引いていくものだと、このときはじめてわかったが、この感覚がどうしても忘れられず、狂気と熱情を狩り立てて様々な演奏の「魔笛」のフルセットを買い求めていく原動力となったのは否めない。

作家の五味康祐さん(故人)の名著「西方の音」にも、満足なオーディオ装置を買えない貧乏な青年(五味さん)がシュワンの音楽カタログを見ながら想像の世界の中で音楽を聴く”名シーン”が展開されているが、実際に聴いていないのに心で聴くとはこういうことかと思ったことだった。

こういうことを書いていると、つくづくオーディオの役割とはいったい何だろうかと考えてしまう。

一般的に私たちはいったん好きになった音楽はとことん、まるで骨までしゃぶり尽くすように何回も聴くものだが、どんな名曲だって、そりゃあ何回も聴けば飽いてくるのは当たり前で、そういうことの繰り返しの中で私たちは記憶の中から次々に自分の名曲を失っていく。

名曲に親しむために苦労してオーディオを買い求めたのに、一方では(オーディオが)名曲を失う役割をも果たしているというこのパラドックスをどう理解すればいいのだろうか。

煎じ詰めるとオーディオとはいろんな音楽を聴くための単なる入り口に当たる役割を果たしているに過ぎず、いったん気に入った音楽が出てくればいたずらに淫することなく心の中でそっと鳴り響くようにするのが本当の「音楽愛好家」というものかもしれない、な~んて思うのである。

いつのまにか、ちょっと堅苦しい独りよがりの精神論みたいになってしまった。主観的な話なので、どうか真に受けないように~。

さて、シューマンという作曲家は正直言って音楽史の中でさほど重要な役割を果たしているとも思えず、これまであまり親しむ機会を(あえて)持とうともしなかったが、本書を読んで大いに触発され、せめて「ピアノ協奏曲op54」でも聴いてみようかと手持ちのCDを探してみた。

”やっぱり、持っていないかなあ”と諦めかけたときに、ふと以前「ディヌ・リパッティ」(ピアニスト)の4枚セットを購入していたことを思い出だして引っ張り出すと”ありました、ありました!”。最後の4枚目のCDにグリークの「ピアノ協奏曲」とセットで収録してあった。

                           

さっそく聴いてみると、音が出た瞬間に「な~んだ、モノラル録音か~!」。

そりゃあ、そうだろう、なにせ1948年の録音(カラヤン指揮)なんだから仕方がないよねえ。しかし、不思議なものでしばらく聴いているうちにまったく気にならなくなって演奏の方だけに惹き込まれた。人間の耳は実に都合よくできている。

「どこかで一度聴いたことがあるよなあ」というのがこのピアノ協奏曲の印象だが、それ以上の感慨は特に覚えなかった。どうもリパッティとオーケストラとの息が合ってないような気がしてならず、他の演奏を聴くと好きになるのかもしれないが、とりあえず奥泉さん、ゴメン。

その替わり、続けて聴いたグリークのピアノ協奏曲(1947年録音)には全身全霊で痺れてしまった。

録音状態もシューマンのものよりずっと良かったが、その演奏たるや形容のしようがないほどで、まったく”ロマンに満ちあふれた素敵な演奏”の一言に尽きる!やっぱり「リパッティ」にはとてつもない歌心がある。

あまりの素晴らしさに参考のため「ステレオ名曲に聴く」(小林利之著)を見ると、何とリパッティの演奏が「群を抜いてすぐれた演奏」とあるではないか!

「グリークの音楽の、そくそくと身にせまる甘くはかない清冽な詩情をキリリと引き締まった抒情性と美しいタッチで表現していて、聴くものの胸に訴えかけてくる。ほかのどのレコードも及ばぬ美しさです」。まったく、さもありなん。

当分の間、この名曲・名演奏を簡単に失わないように1日1回に制限して聴くことにしよう~!?

最後に、本書でもう一つ印象に残る言葉があったのでぜひ紹介させて欲しい。

「ベートーヴェンは、ピアノ・ソナタというジャンルを完成させた。後期の、とりわけ最後の作品111のc-Moll(ツェーモル→ハ短調)は明らかに破壊だろう?偉大な完成者が自分で解体してみせるところまでやり尽くしたジャンルで、後から来た人間に何ができるだろう?それへのシューマンの解答が、小曲集形式なのだ。」(31頁)

作品111の熱狂的なファンの一人として、こういう言葉を聞くとなぜかもう胸が締め付けられて”切なくなる”のである。


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