経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

大きな人が、さらに大きくなっていた

2006年02月05日 | Weblog
仕事でもプライベイトでも、ちょっとした買物でも人にこだわる。威張る人、自分が中心でなければ話が始まらない人、こうした人とのご縁は、できるだけ避けるようにしている。

「我が社は」とか「僕は、俺は」を多発する人。ましてや普段の挨拶や会話で自分や自社の自慢話が中心というのでは、組織内でも自分の力や功績を自慢し社員をないがしろにしているに決まっている。

そうした組織で作られたり売られたりしたものが、消費者を中心に考えられたものであるはずはない、というのが理屈に合わない私の経験則。このことを人様に強要する気などない。先の災いや憂いを防いでくれる、単なる私の魔よけである。だがこの普遍性ある自分なりのメルクマールのお陰で、その折の損得に左右されない判断ができるようになった。それに自分の話をしているようで実は相手へ思いやってくれる人生の師と出会いが増えたことは有り難いことだ。

昨日参加した「みなみの風、交流会」、その発起人、20年以上前いっしょに地域興しを始めた友人、大坪透さんがさらに大きくなっていた。
 開会の挨拶以外は、全て舞台裏。聞き役、見守り役に徹し、ニコニコしているだけ。口出し、指図は一切なし。

 私は一日、彼の動きを追い続け、その忍耐力、包容力に、あらためて惚れ直した。到底私には出来そうもない、大きな人が、さらに大きくなっていた。

経営の背景

2006年02月03日 | Weblog
人も含めて動物は、動くもの、目立つものを追う。その場合動かないものは、一緒くたにされ、そのものを目出される背景を担う存在に過ぎない。
背景によって引き立つ、といった言い方をしても、その背景にとりわけ意義を感じているわけでもなさそうだ。習字など典型的事例だ。空間のおかげで文字が引き立つ。だが練習している者は、字の練習をしているのであって、意識して背景を活用する、といったことはあまりない。カメレオンなどは、この空間と自らを同化させ、身を守っているし、店主はこれを利用し、デスプレーをする。いやいや、経営は、消費者を背景にして(背につけて)こそ成り立っているし、政治家だって民を背につけなければ唯の人だ。

 それはそうとして、私が考え込んだのことは、この大部分(背景)無視し、少数の存在だけでものを見、考えることが、はたして実像・実態なのであろうか、という疑問である。大多数からみたときの少数には、偏りが生じやすいのは自明の理である。と考えれば、はたしてこうした一種の偏りで事物をや人をみることが、正しいのであろうか。実態を示すものであろうか。また彼らにあたえる大部分、背景の影響の影響を考慮しなくていいのだろうか、といったことである。

 商人は、見えるお客には着目するが、見えないお客にはたいてい無関心である。その証拠に顧客管理と称するものは、これまで来店され購入したお客の管理ではないか。たくさんの消費者は、当店の存在を知らない。利用したこともない、購入したことのない。こうしたお客がほとんどなのに、ごくごく少数派のお客のデーターを分析し、判断する。ここでも少ない方が優先され、大部分を占める方が無視される。そもそも来店購入されたお客は、「当店をどう思われますか」といった類の質問、まったくナンセンスであろう。

 仕入れ品揃えされる商品もそうだ。たとへばブルゾン。SS、S、M、L、LL、O、せいぜいぜい5-7サイズで間に合うお客以外を、全部無視するのが切り捨てるのが、いわゆる「仕入れ」であり「品揃え」である。
、個別対応ニーズこそ、ほとんどのお客の本来ニーズであることを突き詰めれば、5-7サイズのいずれかで、ぴったしと間に合うお客こそ、少数派ということになる。

 動くものを見るとき、動かないものをみる。目立つものを見た目で、背景を見てみる。こうし見逃しがちなものを、みることによった、なんいか新しいもの、気がつくものが見えてくるのではなかろうか。

 工業倶楽部のパーティ。終わり近くになると、一人二人と退席始め、見回したら半分以下に。しかし伊藤知事は、まだ経営者たちと談笑している。
 おかしかったのは、知事と同席していた某部長。自分だけ途中退席ができず、手持ちぶさたしている。
 友人のFさんが、いう。「今の知事が、時間前参会、中抜けしない、途中退席しないので、他の県職員も変わってきている」と。

 この日参加の経営者の中で、メインの京セラ伊藤相談役の話を熱心に聞いても、この伊藤知事の、上より身を糺す姿勢から学んだ人は、どれだけいるだろうか。私は、友人F社長を誇らしく思った。

 経営の背景とは、日常の風景といってよい。ここから学べる人に、私は目を当てていきたい。

動く知事と金魚のふん

2006年02月02日 | Weblog
世の中は,目立つものと目立たないものとで成り立っている。ところが、その目立つもの、目立たないものは、人によって変わる。

 時と場合によっても変わる。車で国道を走っていて、トイレに行きたくて我慢にならないときとお腹が空いてたまらないときに目に入る看板は、違う。
 黒板はチョークよりはるかに大きいが、生徒が見ているのは先生の書くチョークの決して大きくない目立たない文字の方だ。
 もっとも今の子達はそのどちらでもないかもしれない。
そこで先生は言う。「黒板を見なさい」。
黒板を見ていたのでは、窓の外を見ているのと変わらないはずだが、それは置いておく。
 カメラを持って、鹿児島の城山観光ホテルでの工業倶楽部の集まりへ出かけた。京セラの元社長伊藤さん、それに知事の伊藤さんを迎えての新年大会である。
 伊藤知事は、参加する会は、始まる前に到着、懇親会の最後までいる。これだけでも稀有。多くの経営者の鏡にもなる人だ。しかも自分の言葉。巻紙を持たずに話をする。(少々長いが)

 懇親会は、この二人の伊藤さんを中心に動く。普通、県知事になると上座のテーブルで動かず、人が近寄るのを受ける、というスタイルだが、この知事は各テーブルを動いて回る。おかしいのはその後ろを、名刺交換しょうと、ぞろぞろついて回る金魚のふんがいることだ。

 知事が動いているのだから、こちらはじっとしていればいい。知事が動かないときはこちらが動けばいい。つまり、金魚のふんたちは、相手の動きに、対応することができない人たちだ。情勢をみて、対応できない。

 これまでのふんぞりかえって挨拶に来る人を動かず迎える知事たち、という思いこみが、彼らを金魚のふんにしている。

 昔は、私も各テーブルを回り、名刺交換していたが、この楽しみに気づいてから、全体が見えるテーブルに位置し、動かない。なぜならそうした会での人の動きを見るのが、最高の楽しみだからだ。

 そういいながら、帰ってデジカメをみてみると、だれでも気が引かれる目立つものだけを写している。以前、散歩の時目立つものを移さず、見落としそうなものだけを写してみようと試みたことがあるが、これが難しく、唖然としたことがある。
 動かない背景があるから動くものが、とらえられる。陰のおかげで日向が認識できる。お陰様だ。あんおに、私たちは動くものだけをとらえ、それで、考える。
 このことはもう少し、考えてみたい。

車でなく、人が主役

2006年02月01日 | Weblog
人が歩かない駅前通りは寂れる。幹線はもはや歩行者の道路ではない。幹線道路への住民の関心は、環境問題として通過車両をいかにスムーズにさばかれるかに変わりつつたる。そのため行政の関与も、拡幅工事やバイパス道路の整備に移行し、住民の生活通路、という視点を失わせるものとなってしまった。

 こうしたことがまた車が消費者を郊外へ運びさり、いっそう中心商店街を寂れさせることに、間接的に貢献することになったと言えよう。
 ゆえに商店街にとって、駐車場対策は、問題の本質的な解決策にはならないのである。必要ない、ということではない。生活環境としての町全体の社会的システムの脆弱化した結果、人々が足でなく車を使わざるを得ない状況に陥ったことこそ問題の本質である、といいたいのである。

 それに目をそらし、いきなり「車社会への対応、すなわち駐車場」というのは,主客転倒した論理である。
 消費者からみて購買地までの距離が遠くなったことはどうなのか。
 買い物場所や個々の商店の非連結性や分断化は、生活者にとってどうなのか。

 そうした議論がないまま、これを車で結べば解決という考えは短絡的かつ一方的である。なぜなら環境・資源エネルギー問題や高齢化時代を考えると、明らかに時流逆行、本末転倒の対応だからである。

 そもそも過疎化する地方郡部地域から、わずかに残されたオアシス(潤い)まで、吸い取らないとノルマを達し得ない私企業の論理と、消費者に車の持つ数々のリスクを負担させることに依存している大手企業が、出店趣意書に、「消費者の利便性」とか「地元商店との共栄共存」、「地域の活性化」などと書いてくること自体白々しい。ほんとうにそう考えているとは、思えないのである。
 彼らが真に消費者、地元のことを思っているなら、そうしたことを果たし得る「場所」を選ぶはず。もっともらしい理由はあとからいくらでも取ってつけれる。
赤字になったら、いとも簡単にさよならする前歴を持っている彼らに軽々しくそうした言葉を使って欲しくない。

 街造りは、そうした戯言などに惑わされるのではなく、地域住民の生活の視点から、構想されるべきものである。当然、車が主役ではなく、人を主役として。