常光寺の唐猫様
昔、「飯綱権現様」の御本体をお祭りするお社を造営するために、今の「常光寺」の伽藍の裏に、 一段高くなった棚状の台地を整地することになった。
ところが、地面を掘り進んでいくうちに、地中から、猫ほどの大きさの不思議な石の塊が出てきたのである。土を払って、綺麗にしてみると、それはまさしく猫の石像だったのである。
人々は、「飯綱権現様」の御本社を造る土地から「唐猫様」が出てきたことを畏れ多いことと思ったので、お寺の「護摩堂」に秘仏としてお祭りすることになったと云う。
そして、「飯綱権現様」の「御本社」が立派に出来上がると、そのお堂の真横に、「唐猫様」を尊んで、美しい「唐猫様」の石碑を建てたそうである。時に、文政十二年 (1829) 己丑の年、願主は「小松曽右ヱ門」であった。
「唐猫様」の御本体は、その後もずっと「護摩堂」で大切に祭られ、いまも秘仏として、お寺全体を鎮護している。現・御住職様も、過去に一度しか拝したことはないそうで、やはり等身大の猫の大きさの自然石と表現されていた。
(文責・筆者。御住職からの聞取りによる)
この「常光寺の唐猫」に関する書かれた文献としては、筆者は今のところ、次のものしか発見出来ていない。他に、何か別の資料を御存知の方がいらしたら、コメントあるいはメールフォームを通じて、ぜひとも御教示下さいませ。
常光寺の唐猫
常光寺 (真言宗) は、中央東線上りの二番目のトンネルのある、飯綱山の裾にある。創立年代は不明であるが、今から五百九十年ほど前、永徳二年* 法印恵覚上人の中興という。応永三年* 本堂建立のさい発掘された唐猫の石像がある。鼠除けを祈願すればその霊験あらたかであるというので、遠くは岐阜・山梨・本県はもちろん、護摩講という講があり、養蚕・農作物の鼠除けのお札を受けに、毎年五月、代参でにぎやかであったという。第二次大戦までは続けられていたそうであるが、養蚕の衰微と共に絶え、現在は、ときおり、山梨あたりからお札を受けに来る人がある程度だという。なお、寺には、部厚い信徒名簿が幾冊も補完されており、唐猫は寺宝として祀られている。
* 永徳二年---西暦 1382年。『塩尻市誌』では、中興を応永年間としている。
* 応永三年---西暦 1396年。
田中米吉 (1975)「常光寺の唐猫 」
塩尻市史談会 (1975) 『塩尻の伝説と民話』、自刊、pp. 58-59
ところで、文政十二年 (1829) に、「唐猫」の建碑が行なわれていると云う事実は、それに先立つ文政二年 (1819) に伽藍が焼亡して、天保年間 (1830 - ) になってようやく再建なったと云う『塩尻市誌』の記述と照らし合わせると、いささか興味深いと云える。同様に、同じく「市誌」は、「常光寺」の「飯綱大聖不動堂」が、「中興」の「恵覚」によって勧請された (『塩尻市誌』第三巻、p. 723) と記しており、これは当然「永徳」から「応永」にかけてのこととなるのだが、このことと、秘仏の「唐猫」が出土したのは、応永三年の「本堂」再建時だと云う『塩尻の伝説と民話』の記述も面白い。
何が面白いのかと云うと、これら四つの出来事と時期をすべて繋ぎ合わせてみると、元の「唐猫」像も、後の「唐猫」碑も、いずれも寺の再興の直前と云う、寺史上、極めて重大な時に発見、乃至は建てられていると云うことである。穿った見方をすれば、文政二年に焼失した諸堂を立て直したのが天保元年だとしたら、「唐猫」碑はその前年に計ったかのように建てられたことになるのである。また、諸堂の焼け落ちた跡地に、石碑だけ建てると云うのも何だか不自然であるから、もしかしたら文政二年の火災時には、台地上の「飯綱不動堂」だけは罹災しなかったのかも知れない。
仮に上記二つの推測がどちらもはずれていたとしても、「文政」の「唐猫」碑が、寺の伽藍が再建される以前に造られていたことは間違いがない。そして、これは取りも直さず、当時の「常光寺」の信仰において、いかに「唐猫」が重要な位置を占めていたかを示唆していることにもなるのである。
おわりに
今回、訪問した「常光寺」は、古い歴史を有する名刹ながら、その寺歴に関する史料をほぼ失ってしまったか、当初から作成していなかったのか、現在、遡って知り得ることは非常に限られている。「永徳・応永」頃の「中興」以前と、「文明」から「寛文」までの長い時期、廃寺かそれ同様の事態に陥っていたらしいことも、寺伝が詳しく伝えられていない要因なのかも知れぬ。あるいは、この寺院が「真言密教」の寺であり、本来的に呪術的な行法との縁も深いため、元々、口伝を重視していたのかもしれず、これもまた記録文献の欠如を説明する一因かも知れない。いずれにしても、外部のものがおいそれとその信仰の内容を理解できるものではなさそうである。
ただ、この寺が、ある時期この地域の「飯綱信仰」の中心的な道場であったことは、以下の諸事実からも明らかであると思う。
1. 山号が「飯綱山」であること
2. 寺院の石段がまっすぐ「飯綱堂」に続いていること
3. 現在も石段が「本堂」ではなく「護摩堂」の正面に来ること
4. 「飯綱堂」も鳥居も、諸仏堂よりも一段高い場所にあること
5. 寺山の山頂付近に、「飯綱権現」の奥社があること
問題は、寺の来歴についてすら明確なことが知れない中、「唐猫様」に関してはいよいよその正体が知れぬと云うことである。「護摩堂」に秘蔵される本体石像の方は、この寺の御住職でさえ暗い中で一度拝したきりだと云うのだから、その実態の解明が難しいのは当たり前である。
何故、仏像でさえない「猫」の石像が、寺で「秘仏」扱いされるようになったのかは、御住職にも謎と云うことであったが、「密教」とは云え、「大乗」の流れなのだから、「仏」であれば、どんな秘仏でも、何年かに一度くらいは衆生済度のために開帳しそうなものである。したがって、決して公開されることのないこの寺の「唐猫様」は、厳密には「秘仏」と云うよりは、やはりかつて存在した、何か呪法的な行と深く関わって祀られたのがもとではないかと推測される。実際、前立てと呼んでいいのかは分からないが、「護摩堂」裏に建てられた「唐猫碑」は、秘儀性の高い「飯綱堂」の傍らに据えられているのだから、このことは恐らく間違いあるまい。
御住職も、「唐猫様」については、会話の中でさらりと、お寺を鎮護する守り神である、と云うような表現をされていたが、おそらくその通りなのであろう。
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