今回は少し変わった釣り物です、松林眞弘氏の話を3回にわけて
渓流釣りと古書釣りのこと
『この渓で竿を出すのは初めてだ。本流へとつづく薄暗い小径を下りきると、真夏の陽光に輝く川面が眼に飛び込んできた。本流は絶好のポイントが連続する見事な渓相だった』このような書き出しで始まる渓流釣りエッセイを見かけることがありますが、これを「古書釣り」に置き換えますと次のような感じに変わります。『この古書街に来たのは初めてだ。表通りへとつづく路地を抜けると、真夏の陽光に輝く古書店のショーウィンドウが見えてきた。表通りは見事な店構えをした老舗店ばかりだった』
いったい何が言いたいかって? つまり、渓流釣りと古書釣りは共通点が多いということです。例えば、如何にも大物イワナが潜んでいそうな大淵で長時間粘ったものの、結局、魚信すら無く臍を噛んだという経験は誰しもお持ちでしょう。また、魚止めの滝まで苦労して釣り上ったが、釣果に恵まれず精根尽きて渓を下る途中、上りでは見過ごしていた細流で尺イワナ拾ったという経験もあるのではないでしょうか。それでは古書釣りの世界はどうでしょう。
ここなら絶対釣れると、在庫数ウン十万冊という御当地一番の古本屋の書棚を隈無く探してもお目当ての「釣り本」は結局見あたらず。しょぼくれて帰る途中、何気なく立ち寄った路地裏のカビ臭い小店で探求書を安値で拾ったという珍現象が度々起こるのです。これはもう、ひとつの普遍的法則といえます。本流の一級ポイントは皆が竿を出すので場荒れしていますが、支流のそのまた小さな流れ込みには予想も付かない大物イワナが潜んでいることがあるもので
す。誰しも物事の本流ばかりに目が向きがちですが、行き詰まった時ほど冷静に自らの足下を見直しなさいという教訓にもなっているのです。ところでアナタは? 偉そうなことを書きながら見た目に欺されっぱなしです。やはり釣果というものは、古書釣りも実釣も自分の足で支流の奥深く分け入り地道に稼ぐしかなさそうです。