第5章 佛教は「無神論」である
三界に家なし
釈尊の佛教は「無神論」だった、と先に言った。だがそれは近代人が考えるように、自我とそれをとりまく世界はある、しかし神はない、という意味での無神論ではない。
釈尊も、インド伝来の神々を認めていた。古代インド人は輪廻転生を信じて疑わなかった。人間が人間に生まれ変わる、人間が動物(畜生)に生まれ変わる、人間が地獄に生まれて苦界に堕ちる、人間が神々に生まれて天上の楽土に住む。最後が生天(昇天)である。中国で「天」と訳した梵語「デーヴァ」は〝神々〃の意である(あるばあいは、その神々の住む〝場所″をも意味する)。人間と畜生は苦界だが、楽しみもないわけではない。地獄はまったくの苦界である。天上は反対にまったく苦しみのない楽しみだけの世界である。それで民衆はみな生天を望んだ。
釈尊だって民衆相手の説法では、〝施論・戒論・生天論″の「三論」を説いたという。「施論」は困窮者や出家に施しをすること、「戒論」は五戒(殺生・倫盗・邪淫・妄語・飲酒)を持つこと、生天論」は前二者の功徳によって、死後に天上に生まれて、神々となって楽しい生が得られる - という説法である。
前述のように、悟った釈尊の立場は「後有を受けず」で後生を否定する。転生輪廻を超えているはずだから、これはあくまで愚かな民衆相手の方便説である。しかし、いきなり大学ではなく、小学校・中学校・高校をへて学ぶように、釈尊もその四諦の法門を説く前に、ある人々にはさまざまな方便説を宣べられた、それを「次第説法」という。人を見て法を説く「対機説法」でなければ、生きた説法にはならないからだ。
三界とは〝欲界・色界・無色界″である。「欲界」(カーマ・ダートゥ)とは、〝欲望に支配される世界″であり、「色界」(ルーパ・ダートウ)は、色(ルーパ)とは〝物質″のことだから、欲望の執われは脱したが、まだ〝肉体に執われている世界″であり、「無色界」(アールーピア・ダートゥ)は、欲望も肉体的条件も超越したが、まだ〝精神的条件だけはある世界″である。逆に言うと、欲望も肉体の執われも脱した精神だけの、その意味では〝純粋精神の世界″と言ってよい。
「天上」というのは、総じて「禅定」の世界だと考えればよい。一種の「無我」の世界である。だが、悟った釈尊が佛教のキー・ワードとした「無我」とは区別すべきである - ほんとうの「無我」は、単なる禅定ではなく、禅定即智慧の定慧一等の無我である -
釈尊は輪廻の苦を解脱することを求めて、その境地を「涅槃」として目ざすうちに、期らずも「菩提」(覚)を証したのである。この〝悟り″によって、真に生死輪廻を解脱することができた。「私はもう後有を受けない」という宣言がそこから発せられた。
「佛教」はここに興った。だから単に 「禅定」でなく、「定慧一等」 の「般若」をもって法門とするのである。「般若」は〝智慧″であり、〝覚″である。