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十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
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誤解だらけの佛教11

2018年05月09日 | 佛教

第3章 佛教は「輪廻」説をどう考えたか

「六道輪廻」ということ

「地獄」とか「畜生」とかいうのは、佛教でいう「六道輪廻」の「六道」の一つである。六道とは、〝地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上″という〝迷いの世界″(佛教では「生死」という)である。

「六道」というが、初めは恐らく「四道の輪廻」だったと考えられる。「畜生」というのは、「人間」の周りに生きている「動物」のことである。死ぬと、ある者は今度は「人間」にではなくて、「動物」に生まれ変わる。膝にじゃれつく猫も、誰かの生まれ変わりかも知れない。

  山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ (行基)

 山鳥のほろほろと鳴く声を聞いて、あの鳥が実は私が無限の過去から今日まで幾生涯を生まれ変わり死に変わりしてきたあいだに、この私の両親であったことがあったかも知れないと思うと、他人とは思えない、というのである。

 「袖ふれあうも他生の緑」というではないか。
過去無限の幾生涯の生死の中で、この人と何かの緑があって、それがきょうのこの日の出合いになったのではなかろうか。そう思って、無限のなつかしさを感じるというのである。
「生まれ変わり」ということなど、前近代思想の遺物と、現代っ子はまったく捨てて顧みないが、「輪廻」というのは、.心のかわききった近代人がもう忘れはててしまった、こんなぬれたハートからくるロマンに満ちた思想でもあった。

「人間」に生まれ変わる。畜生(動物)に生まれ変わる。そして、人間よりもっと善い所に生まれるのが「天上」である。これを生天するという。逆に悪い所に生まれる
逆に悪い所に生まれるのが「地獄」である。地獄は地下にある苦界である、天上は文字どおりに天上にある楽界である。西方十万億土の彼岸にある阿弥陀佛の浄土は、その至極の楽土の故に、特に極楽という。初めはこの四道(地獄・畜生・人間・天上)輪廻であったろう。

  それに、やがて「餓鬼」が加わって「五道輪廻」となり、最後に「修羅」が加わって、いわゆる1六道輪廻」になるのである。「餓鬼」というのは、何かを食べようとすると食物が火になる、何かを飲もうとすると飲み物が火になって、食べられず、飲めないから、永遠に餓えて渇いていなければならない。これが餓鬼道に堕ちた者の姿である。佛教では、学者が「真」を求め、道徳家が「善」を求め、芸術家が「美」を求め、宗教家が「聖」を求めるのも、すべて外にイデーを認めて求める限り「餓鬼」だと見る。

 因みに言うと、「畜生」は前述のように〝恥知らず”の意であるが、これは動物が人前ももはばからずセックスをするのを見て、恥知らずな行ないをするのを畜生道に堕ちると考えたのである。動物たちには甚だ迷惑な話だが、人間どもの勝手な考え方である。

「天上」というのは、”神々”の意である。
ィンドは日本と同じで、八百万とまでいかなくても、さまざまな多くの神々のいます国である。その”神々″のことをインド語では「デーヴァ」といい、中国人はそれを「天」と訳した。だから佛教で「天」というのは”神々″のこと、ないし神々のいます場所のことである。インド民衆は、生天して神々になって楽しい世界に生まれることをひたすら望んだのである。

 こうして古代インド人は、初めは「四道」の輪廻を、次に長いあいだ「五道」の生死という生まれ変わり死に変わりを信じてきたが、最後に「修羅」が加わって「六道」になった。この「修羅」というのは、なかなか面白い。これは、もと「阿修羅」といって「神」であった。この阿修羅(悪神)が天(善神)と戦う。帝釈天との戦争については、経典でも話題となる。それで佛教では修羅道というと、〝争いの世界″だとしてある。聖徳太子の『十七条憲法』にも、1和を以って貴しとし、忤ふるなきを宗とす」とあるように、佛教では何より「和」を貴ぶから、「争いの心」を極度に嫌う。そこで「修羅」は「非天」(神でない)とされて、「人間」以下に落とされている。

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古代インドの六道輪廻という思想がどのようなものかの解説だが、どうも生まれ変わり思想を肯定的に見られているようである。私は現に生きている者の心境として取られているので、生まれ変わりは容認できない。

先に霊魂の存在は認めない、三時業も認めないと言われているが、そしたらいわゆる死んで生まれかわるような話はあり得ない。と私は思う。

コメント
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