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西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

小学校高学年への英語教育反対

2008-11-07 | 教育論・研究論
3年後から小学校の高学年5年、6年生へ英語教育を導入と言う。反対である。

最近、『産経新聞』で社会学者の加藤秀俊さんも「反対」を表明している。他に『国家の品格』を書いた藤原正彦さんも反対、奈良女子大物理学科の出身で言語の問題にも取り組んでいる黒川伊保子さんも独自の研究から反対している。よく分かる。黒川さんの記事ブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/ba4c886c42de283fdd25242c9695f19c

日本語の基本や豊かさを得てから外国語に進んでも遅くはあるまい。とにかく、先ず、言語の基礎を母国語で得るべきなのだ。

どう思いますか。

「居場所」を探す子供たち 日本子ども学会学術集会

2008-10-10 | 教育論・研究論
9月下旬、奈良女子大学で行われた日本子ども学会学術集会の様子が今日の『産経新聞』17面に載っていた。阪大の鷲田清一学長が講演したようだ。(以下、引用的要約)

鷲田さんは「いじめは子どもの世界だけの問題か」と問い、・・・「高齢者は切り捨てられてはいけないと思い、素直な可愛い存在になろうとしている。以前、キンさん、ギンさんのCMが流れていたときは、『嫌われてはいけないお年寄り』という脅迫的メッセージがみえた」、と話した。

なぜ「可愛い老人」というイメージが必要かと言えば、、現代社会では「排除の論理」があるからだ、と指摘したようだ。それは特定の人を存在しないように扱ったり、祭り上げることで、「その集団の連帯を強化する」というものである。

鷲田さんは「排除の論理に対抗する、集団形成の論理を作れなかった」ことが、「いじめ」を阻止できない理由の一つだ、と述べた。

いじめ報道が、いじめを助長しているとも述べた。いじめをセンセーショナルに報道し、学校をバッシングする司会者、第三者として座るコメンテーター。この学校対テレビという関係の中で、コメンテーターのコメントにうなずく視聴者。この視聴者は、「見てみぬふりをし、実質上、いじめに加担している子どもそのものではないか」というのだ。

学校をバッシングし、教員に全てを任すとすれば、教室は閉ざされた空間になる。複数の個人がいる密室でむきだしのままの空間では、学校に限らず職場でも「排除の論理」が働きやすいという。鷲田さんは教室を密封するのではなく、地域社会がどんどん介入し、「仲裁」することが必要だ、と提言した。

そうだろうな、と思った。どのようにして「集団形成の論理」をつくり子どもを含め、教員、地域住民に浸透させるのか、そのためには最近「閉鎖」しがちな学校を地域に開かせ、地域全体で取り組まねばなるまい。

日本語、日本人そして日本列島のあり方論を

2008-06-16 | 教育論・研究論
昨日、今日と2回にわたりラジオ深夜便「こころの時代」で阿辻哲次さん(京大教授、中国語、漢字論等の専攻)の「漢字と生きる」を聞いて、面白かったし、色々考えることもあった。

話を聞いて、こんな表意文字の漢字を中国から輸入するとともに、自ら表音文字の平仮名、片仮名を発明し、それに加えてアルファベットまで使って文章を作り言いたいことをこまやかに伝えられる日本って「言語最先端国」ではないか、と誇らしく思った。

で、阿辻さんは、今問題になっている「常用漢字」のあり方(昔は「当用漢字」と言っていた)議論に国民全体が参加したら良い、それによって自分達の言語生活が見直され豊かになるのでは・・・、と言われたが、そうだな、と思った。
関連新聞記事および関連記事参照:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080603-00000942-san-soci

ここで日本語は、使い方は千差万別であれ日本人(というか、日本国内)全体が使っているから、全体で議論したらよい、という論法をフト考えてみた。

ならば、日本人は何たるものであるかは、日本人全体で考えたら良い。

さらに、日本語を使う日本人が住む日本列島のあり方も、日本語を使って日本人全体で考えたら良い・・・、ということになるだろう。

日本語論、日本人論そして日本列島論の勧めである。

こう言ってみて、考えてみると、最近では司馬遼太郎さんあたりが、そのあたりを考え出していたのでは、と思い当たったが・・・。

子どもの躾ー挨拶と行動の型

2008-06-04 | 教育論・研究論
躾っていい字書きますね。身が美しい!

前のブログ記事の続きで、教育者の森 信三先生は、子どもの教育の根幹は躾、それは集約すると次の三つでよい、と言っていたようだ。これらは3歳から5歳の時に集中的に躾ける。(正に三つ子の魂、百まで、だ)

(1)朝起きたら、お父さんお母さんに「お早うございます」と言う。
(2)お父さんお母さんに自分の名前を呼ばれたら「はい」と返事をする。
(3)玄関先で脱いだ履物は、きちんと次にすぐ出られるように整えておく。以上

(森 信三先生による原文:   しつけの三大原則
 一、朝のあいさつをする子に──。
   それには先ず親の方からさそい水を出す。
 二、「ハイ」とはっきり返事のできる子に──。
   それには母親が主人に呼ばれたら必ず「ハイ」と返事をすること。
 三、席を立ったら必ずイスを入れ、ハキモノを脱いだら必ずそろえる子に──。)

これらの理由を藤尾秀昭さんは詳しく言われなかったが、聞いた私の解釈、意義付けは次の通り。

 これらは、人間の言葉によるコミュニケーション(二項目)と、行動の型(一項目)である。

人間同士、きちんとコミュニケーションが出来るためには、先ず「つながり」をつける挨拶がスタートとして何時でも必要である。当然、昼なら「こんにちは」夜なら「こんばんわ」、久しぶりに会ったのなら「お久しぶりですね、お元気ですか」、授業の始めなら「起立、礼、お早うございます等」となるが、基本の「お早うございます」がきちんと身についていれば自然と他は応用で出てくる。抵抗がない。
 次に自分が呼ばれたのなら「はい」と(一回)返事することが相手との「つながり」をつける「合図」である。これは、学校に行けば「○○君(さん)」「はい」「○○ページの××行の意味はどんなものでしょうか」「えーと、それは・・・」と続いていく。
 玄関先で履物を揃える行動の型は、私は行為転換の型と言っているものだ。玄関は、正に内外の行為や気分が変わる「行為・気分転換空間」なのである。
で、これがきちんと出来ると、ある行為から次の行為に移るときの作法が自然と分ってくる。朝起きれば布団を上げる、ベッドならきちんと整えておく。食事が終ったら食器は流しに運ぶ。場合によって洗っておく。何か行事が終ったらきちんと机や椅子を整える等々のことである。

これらを小さい時に叩き込む(というと一寸キツイが・・・)というのが躾けの要諦ということだろう。この三つを聞いたときも「うーん」と唸った。

森 信三先生は、西田幾多郎(京大・哲学)門下だが(と書いたが28歳で入学、それ以前に色々の遍歴をしておられる)、カントやヘーゲルやといった学問に愛想をつかせて、実践的教育学を考え抜き実践に供した人のようである。神戸大学教育学部などで教鞭をとったが、教育学者というより教育者というに相応しい。1896-1992で享年96歳であった。

子供の時に何になりたかったか

2008-04-22 | 教育論・研究論
夕べ10人ほどの知り合いの男女と飲みかつ食べながらわいわい喋った。ある会合のあとの「懇親会」である。男性5人女性4人である。60歳代は私一人で後は50歳代以下と思われる。40歳代、30歳代もいたので「いい組み合わせ」だ。これ位だと皆適当に発言できるので良い。小、中、高、大の子供がいる人もいて、つい「教育」の話もあれこれ出る。

で、余り小さいとき、無理に将来何になりたいの、と聞かないほうが良い、自分で決めるまでじっと待つべきだ、という意見があった。最近の「朝ドラ」でも成長過程で自分で「落語家になりたい」とか「旅館の女将になりたい」とか決めている。たしかに、きちんと決めるのは成人する頃かもしれない。

しかし、小さい時「何になりたいの?」と聞かれて気軽に○○になりたい、と言っていたことを思い出す。私の場合、小学生の時は、学芸会の演劇に何度も出たので、「役者になりたい」と言っていたと思う。学芸会の時、先生から「尻を観客席に向けてはいけない」「観客席の一番後ろに声が届くように大きな声でせりふを言いなさい」と言われたこと、今でも思い出す。

中学生の時は、前にも書いたが「スポーツアナウンサーになりたい」と言っていた。http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/1c4ac5c26f11a75951426ab57375b77f
そのようなことを言いながら、小さい時にでも気軽に「なんになりたい」と聞いてもいいのじゃない?と言ってみた。

ある人が、「西村さんは、今でも役者でアナウンサーみたいな者じゃないの?」と言った。そういえば大声で早口かな・・・。

子供たちはまちが育てる

2008-04-08 | 教育論・研究論
新しいNHKTV「朝ドラ」が始まった。東京・月島が舞台の「瞳(ひとみ」である。主人公の瞳(榮倉奈々)は「洋品店を営む勝太郎(西田敏行)の養育家庭を手伝いながらダンスの夢を目指すのだ。」

瞳自身も、札幌で離婚した母親に育てられてきた。お祖父ちゃんの勝太郎は三人の子供の里親をしている。お祖母ちゃんが亡くなったので里親は無理か、となったが孫の瞳が「私がお祖父ちゃんを手伝う」とて勝太郎は里親を続けることになる。

担当の児童相談所の所員が月島の勝太郎家を訪ねた後、瞳に「学校や家庭だけでなく、まちが子供たちをそだてるのだよ。月島に来ると子供たち(里子たち)は、まちの皆に見守られていると思うんだよ」といった趣旨を言う。

そうだな、と思うとともに、そういうことを足元でも追求したい、と思った。

ところで、最近の朝ドラでは、「ちりとてちん」は大阪の下町、今度の「瞳」は東京の下町の人間「つながり」が描かれている。とにかく、まちといっても下町だ。郊外戸建て住宅地では、こういうドラマは作りにくい。でも、そこでも、まちが子供たちを育て、高齢者を見守るようでありたい。

大学の高校化

2007-11-24 | 教育論・研究論
今夕、NHKラジオで大学問題をやっていて興味深いものだった。大学進学率が5割を越えて「全入時代」となると、まあ高校での成績が5段階評価で平均3を下回り2台の子も大学へ進学してくる。特に私学で入学定員を割っている40%以上の大学では、そのようになっている。そういう学生にとって従来の大学の講義レベルは難しすぎることになる。もし、大学において理解させようとすると、大学の「補習」として高校レベル、場合によっては中学レベルの講義をせざるをえなくなる。まあ「大学の高校化」とでも言えよう。そういう高校レベルの知識の獲得は本来は高校でやるべきだ、と言っても(それが正論としても)既に大学に入学させたのだったら、大学で獲得させざるをえないだろう。まあ大学が実質高校になっても、授業料を払って、そうなるなら(経営が成り立つなら)、そしてその結果、学生達が「理解できた、勉強・学問も面白いじゃないか」となるなら、それでもよいじゃあないか、と考えるのも一理である。私学では金沢工大がそのような教育をやっている。判断基準は、子供達が、学生が実際に「知的喜び」を少しでも獲得することであるに違いない。