いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

秀麿さんは、島田娘、あるいは、「おい、ご飯だよ!。カッカ」

2013年03月20日 19時54分21秒 | 日本事情

―秀麿さんは、島田娘の仮装―
愚記事より

■ 秀麿さん、子供の頃の思い出;

 顔を見合わせた僕ら弟達は何ともいえぬおかしさがこみあげてきて、

「カッカなんてこの辺で聞いたこともないな」

「そんな変な者はいないよ」という調子で追い払ってしまった。

 後で、食事のときに何となくこの話をしたら、もう卒業まぎわの京大生だった兄は、少しはバツが悪そうに、

「それはおれのことだろう」とポッツリいった。喜んだのは我々弟達だったわけだ。それからというもの、

「カッカ、起きろ」

「おい、ご飯だよ。カッカ」

「カッカ、散歩に行かない?」

「カッカ」

 とうとう頭にきた兄は、このためばかりでもあるまいが、

「もう東京に帰ってくれ」ということになってしまった。 [1]

■ おいらの毎晩の楽しみは、酒っこくらって、YouTubeでさまざまバージョンの分列行進曲を聞いて、地団駄を踏むことである。おいらは、毎晩、地団駄を踏んで、後進 行進している。そして、週数日、ブログの更新もしている。

そんな、YouTubeのさまざまなバージョンの分列行進曲で、交響楽によるものは、これひとつだ。 新交響楽団。指揮、近衛秀麿。

 【軍歌】陸軍分列行進曲 (扶桑歌)

敗戦直後、近衛文麿が戦犯容疑者としての取り調べに出頭を命じられた頃、弟の秀麿が3度会っている。数々の近衛文麿の伝記でこのくだりを読むと、8-9年の絶交の果ての再会と記されている。さて、上記の文麿がヒトラーに、秀麿が島田娘に仮装した時は、1937年である。したがって、伝記にある絶交はいつから始まったかわからない。つまり、この仮装パーティーの直後なのだろうか? 兄弟が再会する1945-1946年まで8-9年だ。調べた。文麿と秀麿の絶交の理由を記した、おいらが探せた、唯一の資料は岡義武 「近衛文麿」(岩波新書)。「秀麿は曾つて東京音楽の改革を構想し、そのことが因で兄と衝突して、久しく不和の関係になっていた」とある。東京音楽の改革問題で公爵家の兄弟が不和になるというのも不可解ではある。何か深刻な問題が兄弟間にあったのだろう。

さて、その近衛秀麿さんの自伝を読んでみた(Amazon 近衛秀麿、『風説夜話』)。知らなかった。1945年春、ドイツにいたのだ。米軍の俘虜となり、「もう数十時間、飲まず、食わず、眠らず立ちつづけた。時々意識が朦朧となると膝を折って泥土の上に座りそうになる。(略) もう何人か、老兵が倒れて運び出される。生きているのか、死んだのか、米軍は手を下さない。捕虜同士の手で門の外の草の上に鮪のように並べられている。仮に死体になったにせよ、横たわれるということは羨ましい。」とある。

その俘虜記で特に印象的な場面;

 朝、頭をジャン刈りにされた三人の若い女がぶち込まれて入ってきた。衛兵の話では頑強なナチだという。欧州女にとって、この恰好で引き廻されることは、耐え難い屈辱に違いない。ヒットラー始め巨頭が皆死んだり捕われてたりして、ナチズムそのものが歴史の上から消失した今日、まだその主義の為に抵抗をつづけている三人の若い女性達を午食に整列したとき、無量の感慨を以って改めて見直した。

(中略)

女の内二人は今日は悄然としているが、一人だけは相変わらず無謀の抵抗をやめない。銃の台尻でこづかれても、投げ飛ばされても「ドイツは敗けない。今に見て居れ!」・・・・

■ そして、上の扶桑歌の録音は、昭和3年。世界大恐慌の前年だ。ブルジョアの小春日和に録音されたのだ。恐慌への順応としての共産主義とファシズムの時代が来る直前なのだ。

それは、恐慌への順応としての共産主義とファシズムの時代がひとだんらくしようとした1945-1946年の時代だ。秀麿は俘虜、でも九死に一生を得る。そして、文麿は自殺に追い込まれる。 そして、文麿の長男がソ連に「殺されるのは」この後、10年後である。


[1] 近衛秀麿、 風説夜話