いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

日本政府 内閣官邸にコミンテルンがいた日々

2013年03月10日 20時12分26秒 | 日本事情

 

ニュース元; 官邸に「左翼80人」入り込んでいた 飯島内閣官房参与が明かした「惨状」

ちょっと古いニュース。 

「飯島参与は小泉純一郎元首相の秘書官を長年勤めたことで知られ、安倍政権の発足に伴い、小泉政権時代以来約6年ぶりに官邸に「復帰」した。そんな飯島参与はゲストとして登壇するや開口一番、

「官邸に入って驚いたんですが、むっちゃくちゃ。村役場以下ですよ」

と目をむき、民主党政権が官邸に残した「負の遺産」を並べ立ててみせた。」

その80人って、民主党政権にあいさつに来てた元祖サヨの自民党員(註: 元祖バカサヨの孫、麻生太郎のことかね?

まぁ、首相官邸には、コミンテルンがいた時代もあったじゃないか、とおいらは思った。

コミンテルンってなんだか知らない御仁、特に若い諸君、もいるかと思う。 おいらもよく知らない。 調べた。

国際共産主義運動を実現させようとした組織らしい。⇒wiki.

全世界赤色化革命世界同盟!って組織らしい。 Paint the globe RED! (地球を赤く塗りつぶせ!)という組織なんだろう。

元祖、グローバリゼイションに他ならない。

なお、厳密にいうと、ゾルゲの所属は「コミンテルン」ではない。赤軍(労農赤軍参謀本部第4局 wiki)。しかし、尾崎は自分は「コミンテルン」の一員、つまり「コミンテルン」からの指示をゾルゲ経由で受けて活動していると認識していた。

そのコミンテルンに奉仕すると自覚し、かつそれを表明するとその目的であるコミンテルンへの奉仕が実現不可能なので、周囲を欺瞞し、つまりは自分はコミンテルンに奉仕していますと表明しないで、日々コミンテルンに奉仕していた人たちがいた。地球上、あちこちにいた。特に近代化した地域、つまりは資本主義が始まった地域にいた。

われらが日本にもいた。そして、彼は、首相官邸に事務所を開いたのだ。「左翼80人」よりよっぽどインパクトがある。

その尾崎秀実が近衛内閣の嘱託として、首相官邸に事務所をもらい、首相官邸内を闊歩できるようになったのは、第一次近衛内閣が発足した昭和12年(1937年)6月である。この、のちに自分はコミンテルンへの協力者であり、「共産主義者」であると自供することとなる尾崎秀実が首相官邸に事務所を開けるようにしたのは、近衛内閣の内閣書記官長(現在の官房長官の役割)であった風間章(wiki)である。

もちろん、その風間章を内閣書記官長に任命したのは、近衛文麿である。しかしながら、近衛文麿は内閣発足まで一度もこの風間章に面識がなかったらしい。会ったこともない、どういう人物かもよくしらないのに、内閣の書記官長にして、官邸の管理権限を与えたのだ。

もしかして、16歳なのに、このブログに(間違って)来て、尾崎秀実って誰!?という君は、どうぞ→ 尾崎秀実 wiki

■ 尾崎秀実の赫々たる業績、あるいは、尾崎秀実の謎

尾崎秀実の目的は、日本(当時は大日本帝国)を日中戦争(当時の尾崎秀実がいうとすれば、日支戦争)へ引きずり込み、中国における米英権益を日本に襲わせ、これに対応せざるを得ない米英などと日本を戦争させる、帝国主義間戦争の実現であったろう。アカの定石である。それにしても、そんなことを「ひとり」の工作でできるのであろうか?

昔からあって、今ごろやっとそれに気付いてた人が騒いでいる説がある。それは大東亜戦争はコミンテルンの陰謀であったというもの。おいらは、基本的に陰謀説を信じない。なにより、陰謀説は立証ができない。立証されたものを信じるという凡庸な近代人であるおいらは、陰謀説が苦手だ。

でも、陰謀説とは別に、史実もある。上記、コミンテルンへの奉仕者が日本政府の内閣官邸に事務所を開いていたのも、史実なのである。こういう史実という点をたくさん集めて線を結ぶという地道な努力は大切だ。

一方、線が見えてしまったので、もう点はどうでもいい、ということになってしまうと、何でもありということになる。陰謀論の氾濫。

しかしながら、見えてしまった線を見て、その線の下には点はないだろうか?と探すことはありうる。

さらに回避しなければいけないことは、点である史実の意味を考えないことである。その点はどんな線をなしうるかの解釈を怠ることである。 史実認定に淫すると、ただの切手集め(愚記事;「すべての学問(科学)は、物理学か切手収集のいずれかに分類される」)に終わることとなる。

点で短し、線では長し、とかくこの世は知り難い(???)!

仮説を設定して、事実を見つけ、その仮説の是非を検証するというのは、ひとつの研究的方法である(作業仮説による真理への到達方法)。 仮説を設定するところで終わるのが、陰謀論だ。

そして、設定した仮説に都合のよい実験データを「準備」することが、我がぬっぽんを始め世界中で大流行の科学研究者による「捏造」である(愚記事⇒秀才バカ=ストーリーにあわせて「証拠」を揃える。:他人を欺かんと欲するものはまずは自らを欺け?...  )。

さて、尾崎秀実の問題に戻る。

尾崎秀実は日本を日中戦争に引きずり込もうとした(仮説)。つまりは、近衛内閣の官邸で、対支那強硬策を煽った。事実、近衛内閣発足後1カ月で盧溝橋事件(wiki)が勃発した。問題は、事件が勃発したということよりも、現地で当事者同士で停戦合意がなされ、事件勃発後数日は日本兵はひとりも死んでいないのにもかかわらず、近衛内閣は、閣議で3個師団の派兵を決定した。そして、戦争が始まった。さらには、その5カ月後、「帝国政府は爾後国民政府を相手にせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して再生支那の建設に協力せんとす」、と声明する [1]。相手がいない戦争をするのか?戦争でさえなくなった。支那を混沌とさせ、収拾がつかないようにしたのだ。

[1] 関連愚記事:1937-1972の大戦略;文麿と角栄の間

この大東亜戦争はコミンテルンの陰謀であったという仮説の結論をいうと、近衛はまんまとコミンテルンの挑発にのったのだ。つまりは、盧溝橋で発砲したのはコミンテルンだろうし、何より足もとの日本政府・内閣ではコミンテルンの工作者が日中停戦の現場合意を踏みにじる政策をなしたのだ。

しかし、ここで、派兵の主体となった陸軍でのコミンテルンの陰謀があったという裏を取らないと、上記「線が見えてしまったので、もう点はどうでもいい、ということになってしま」う。

どうやら、陸軍の参謀本部の作戦課の武藤章がキーパーソンらしい。 上司はあの石原莞爾。

今となっては、どの歴史通俗書にも、この盧溝橋事件が起きたときの陸軍参謀本部作戦課の石原莞爾と武藤章の言動が書かれいる。

1. ・支那事変勃発の際、参謀本部作戦課長であった武藤は、軍事課長の田中新一に電話をかけ、「ウン田中か、面白くなったね、ウン、大変面白い、大いにやらにゃいかん。しっかりやろう」と課員に聞えよがしに大声で話していたという。

2. ・武藤が石原に向かってこう言ったそうです。『石原さん、なにをおっしやるんですか。私は、あなたが満州事変の柳条湖事件の時にやられたことと同じことをやっているんですよ』 [出典]

尾崎秀実の謎; 尾崎秀実は実は陸軍に太いパイプを持っていたと「推定」されている。ここで、推定とあるのは、証拠・歴史的資料が出てこないから実証できないのである。

ただし、傍証はある。武藤章と尾崎秀実は交友関係があった。事実、1942年(昭和17年)4月にゾルゲ事件の発覚等により更迭され、近衛師団長となるwiki武藤章)。

そもそも、なぜ、朝日新聞の記者が内閣の嘱託となったかの詳細は不明らしい。ただし、陸軍の推薦・押しがあったとの傍証がある。これは、ゾルゲ事件で陸軍との関係が一切出ていないことである。陸軍はナチスの組織員としてのゾルゲと交流があった(とされる)。(ゾルゲは日本ではナチス党員ということで活動していた)ゾルゲと陸軍参謀本部との関係の証拠が出ていない。つまりは、陸軍がゾルゲ-尾崎に相当やられていたと考えるのが普通だろう。もちろん、日本陸軍の考えが白紙の状態にゾルゲ-尾崎が入れ知恵したとか、ましてはゾルゲ-尾崎が洗脳したとかいうのではなく、元来好戦的で自己組織拡大のために戦争を欲する政府官僚としての陸軍の利害と戦争を励ますゾルゲ-尾崎の入説に、一部の陸軍官僚が共鳴していたのだろう。そして、もちろんそういう日本陸軍官僚はホントにゾルゲ-尾崎はコミンテルンの工作員とは思わず、同盟国ドイツの対日協力者だと信じて疑わなかったのだ。ゾルゲはナチス党員として日本で活動していた(参考愚記事;コミンテルンと吉田茂、あるいは、日独防共協定の皮肉)。

■ さて、今は昔、昔は今。

日本を戦争に引きずり込む本当の支那からの工作員は誰だ!?