いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

梟雄が放った盲の鶺鴒が、400年の後、大地震で崩れた土蔵で、古の教唆煽動を囀る

2013年03月27日 20時03分06秒 | 仙台・竹雀・政宗

きょうゆうはなっためくらせきれいが、400ねんのちだいじしんくずれたどぞうで、いにしえきょうさせんどうさえず


  -25日、朝、東海道新幹線、車内にて―

今週月曜日、朝から、清州のとなりの名古屋に行くため、新幹線の のぞみ に乗った(おいらは、何の望みもないのに...)。

ところで、政宗公が初めて、箱根の山を越えて、「名古屋」に行ったのは、彼が23歳の時だ。

同僚であるはずの蒲生氏郷から訴えられたからだ。

その訴えとは、氏郷と政宗が共闘して討伐すべき一揆を、実は裏で煽動しているのは、政宗であるというものだ。

それで、秀吉に呼び出されて、清州に向かったのが、1591年 (天正18年) である。

そんな、清州・名古屋へは、東京からは、いまじゃ2時間もかからない。

それに、きしめんだって、なかっただろう。残念な、政宗。

その名古屋へ向かう車中で、ニュースがいったさ、「伊達政宗の密書発見」。

こういうニュースだ;

東日本大震災で損壊した茨城県ひたちなか市の土蔵から、戦国大名・伊達政宗の起請文(きしょうもん)(誓約書)が見つかった。

 対立する佐竹氏につく常陸(ひたち)(茨城県)の武士に、佐竹氏を裏切るよう促した「密書」とみられる。関東に送られた政宗の起請文が見つかったのは初めてという。

 被災した土蔵などにあった文化財が建物ごと処分されないよう活動するボランティア団体「茨城史料ネット」が確認した。壁や瓦が崩れた蔵の所有者家族が、片づけ中に「政宗」と読める文書に気づき、昨秋、ニュースで活動を知った同ネットに連絡した。

 代表の高橋修・茨城大教授(日本中世史)によると、起請文は1589年(天正17年)、常陸の大名・佐竹義宣の配下にあった小野崎昭通(あきみち)に 宛てられた。「中川北ニ江戸領之内(中略)可宛行(那珂川以北の江戸氏の所領をあてがう)」と記され、近隣の江戸氏に打ち勝てば、その領地の一部を与える と約束している。佐竹氏からの離反を条件としていたとも読み取れる「其元事切候以後(お前が手切れした後)」との記述もあった。

(2013年3月25日09時22分  読売新聞)
 
わお! 葛西大崎一揆事件まんま、じゃないか!
 

 ―政宗が小野崎昭道に宛てた書状 (左下の鶺鴒の花押に注目)―
⇒ 解説 web site  伊達政宗の密書  (額田城址保存会)
 
葛西大崎一揆事は政宗領から見て北でのことだ。このニュースのひたちなかは、政宗領から見て南のことだ。時代も全く同じだ、1589-1590年。やはり、政宗は、四方八方に、盲の鶺鴒を放っていたのだ!
 
このニュースの政宗の教唆煽動の書簡の意味を見てみよう。
 

1582年 (天正 9年)本能寺の変。織田信長、死没。

1585年 (天正12年)秀吉、関白となる。<豊臣秀吉>の「誕生」

1586年 (天正13年) 人取橋の戦い(政宗18歳)

南部戦線の戦闘。佐竹との戦争に戦術で敗れるも、佐竹内での内紛を工作。伊達家の殲滅を逃れ、戦略的に負けなかった。

1587年 (天正14年)  惣無事令 (秀吉による戦争禁止令。政宗はこれを無視して戦争やりまくりで、ぬっぽん有数の戦国大名となる領地を確保する)

1589年 (天正16年)  政宗、この密書(小野崎昭道に宛てた書状)を書く(政宗21歳)

1589年 (天正16年)  摺上原の戦い[秀吉の麾下の葦名氏を滅ぼす](政宗21歳)

1590年 (天正17年) 秀吉、小田原征伐

               政宗、小田原参陣(6月)。秀吉に服従。この後の蒲生や木村親子など西からの占領軍・進駐軍のみちのく支配を許す。政宗、西からの占領軍・進駐軍の「手先」という役割を担わされる。政宗の本心は不明。

1590年 (天正17年) 葛西大崎一揆 蒲生氏郷と共に政宗は一揆討伐にあたる。

           しかし、「一揆を煽動していた」と、氏郷に訴えられる。

           煽動の証拠は、政宗が一揆勢力に発した書状。

1591年 (天正18年) 清洲にて、葛西大崎一揆煽動の査問を政宗が受ける。

        書状の花押の鶺鴒の目に穴がないことを理由に、偽書状と主張。

       「有罪」を免れる。しかし、大規模転封。東北北部へ押しやられる。

        (政宗23歳)

すなわち、今回見つかった教唆煽動起請文は、政宗が「乱発」していたに違いないもののひとつなのだ。

  梟雄が放った盲の鶺鴒が、400年の後、大地震で崩れた土蔵で、古の教唆煽動を囀る!

そして、葛西大崎一揆の時、蒲生氏郷に訴えられた政宗は、清州に秀吉から呼び出され、査問される。

その時の「言い逃れ」が、今となっては、政宗物語の一大名場面(いちだい めいばめん)となる、鶺鴒の目、だ。

 一揆と政宗の関係は、はたしてどのようであったか。総じて、秀吉勢力に対する政宗の意図ないし態度は、いかなるものであったか。

次に、これをみることにしよう。

 第一に、須田伯耆が、氏郷にもたらした政宗の書状の真偽はどうであろうか。秀吉がこの書状を政宗に示したところ、政宗は、その筆跡の似せ方の巧妙さは、弁解の余地がないが、しかし、花押は明らかに贋である、自分の用いる鶺鴒形の花押には、必ず眼孔を開けておくことが、これにはない、という申し開きをした。

これによって、政宗の許されたのを聞いた井伊直政のちに親戚となるとは思いもしない頃だ)が、家康に向かって、異心歴然たる政宗を許した秀吉の不明をつげたところ、家康は、これを知らぬ秀吉ではないが、命に応じて上洛した勇気と自署の檄文として弁明した器量に免じたのだ、事前から心がけて花押を書く用意をもった政宗は実に大将の器ではないか、とかえって直政をさとしたという。 (小林清治、『伊達政宗』)

だから、今回見つかったひたちなかの政宗の起請文の鶺鴒には、当然、眼孔はないのだ。

さて、事実はどうだろう。 近日、一般公開されるとのこと。


そして、おいらは、名古屋できしめんを食べた。