いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

政治芸人;石原慎太郎

2007年03月16日 20時04分49秒 | 日本事情

-- 恥の一字を以って人を激励す -- 松陰 


1977年4月22日、水俣病患者に土下座する環境庁長官・石原慎太郎

■ここのところやたら耳につくのは、政治家が順法さえしていれば、なんら問題ないとの、政治家自身たちの声である。 筆頭が第二愚民党の小沢党首。 あれは、政治活動を隠れ蓑にした「不正」蓄財だろう。 そして、愚民本流の松岡大臣。 その違法でないならいいだろうとの、てんで恥ることのない振る舞いはまことに立派であるといわざるをえない。

■違法でないならいいだろう、とおっしゃられるのは、何も角栄嫡流の小沢一郎ばかりでなく、むしろ、政治流儀といささかでも政治路線において対極たらんと勤めてきた石原慎太郎センセも、ついには、余人をもって替えがたい才能をお持ちの御子息の縁故業務委託問題について、違法なんですか!?と開き直る始末である。

必要があらば、法などというものを踏みにじることこそ、慎太郎センセの意気込みと売りではなかったのか?

すなわち、息子の問題はるか以前から、そして、その息子問題がほとぼりが冷めた最近、石原センセは、現行憲法なんてのは、根拠がないのだから、破棄すればいいんですよ!とおしゃっている。 実は、おいらは個人的には全くそのとおりと思う。 

(おまけ; 北朝鮮外交を担当した外交官の家に爆弾が仕掛けられたとき、当然であるとおしゃった。つまり違法の典型である犯罪を「賛美」したのに。息子の問題でしゅんとなり、どこが違法なんですか?と逆切れした慎ちゃん。これは、大ワライ。)


■だけんども、そういうことを言っていいのは、草莽微賎の特権である。かりそめにも、現行マッカーサー憲法に則って国務大臣・長官を歴任した人間はそういうことを言ってはいけないのである。なぜなら、てめーがデージンになるときは憲法を盾にとり、気に入らないと、改正ではなく、破棄しろというのは、誠に子供じみているといわざるをえないからだ。

しかし、その子供じみた、単純なところが、彼の政治化としての人気の源泉にほかならない。その場、その場で子供じみた単純な至誠がたぎり、政治パフォーマンスをしてしまうのである。

▼上記画像は1977年4月22日に、彼が環境庁長官であった時、水俣病の患者に土下座している写真。

彼はまた、衆議院議員を電撃的に辞めるとき、国会演説で、自分の政治生活を振り返り恥ずかしいといった。恥を知る者は幸いである。しかしながら、今、もっと恥ずかしい、馬鹿親ぶりを発揮している。

一方、300万票を取った頃、つまりは得意の絶頂の頃、三国人と言った。さらに、それ以前から、となりのあの国を支那と呼んでいた。 当時は別に問題ないと抗弁していた。(おいらもよいとおもう。) それなら、今だって言えばいいじゃないか!? 支那の北京オリンピックとかさ。

結論を急ごう。慎太郎チャンは、右翼でもなんでもなく、その場、その場で、受けそうなことをしているのである。 ただし、その場での誠を、おいらは決して疑わない。そして、その政治技術、すなわち、政治パフォーマンスが、あまたいた政治家の中でとびきりぬきんでいたことは、後世の歴史家から見ても明らかである。あまつさえ、いささかなりとも、文芸によってもそのメッセージを残したことの意義は大きい。

しかしながら、いささかなりとも、この副詞的表現を多用することをお許しいただきたいのだが、難点を指摘させていただくと、現行憲法批判、既成政党非難、そして、No!といえるでおなじみの対米批判といい、現実に慎太郎チャンは、一度たりとてその批判する対象の庇護から踏み出したことが無いことは確認しなければいけないことである。これは、大江センセの御子息並みの「お坊ちゃま」であることに他ならない。 つまりは、虚仮おどしの主張でしかないことは、これまた、痛恨の真実ではある。

虚仮おどしのことをいつもその場、その場で言っているので、言ったことを、鳥のように3歩(さんぽ)歩くとわすれちゃうのである。 これも、慎チャンが「最終解決」を謀ったカラスの呪いにほかならない。



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1 コメント

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Unknown (ima)
2007-03-16 22:30:54
今、一番必要なのは自民党の独裁を終焉させる事です。

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