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いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

「三四郎」と大川周明

2006年03月16日 19時18分38秒 | 日本事情
先日『三四郎』は日露戦争の3年後の話とされているので、1907年あたりの設定となる。と書いた。これは1907年に朝日新聞に『三四郎』が連載されていたということ。(今回初めて知りますた)

改めて確認すると、漱石の小説『三四郎』は熊本の高等学校(第五高等学校でしかありえない)の文科を卒業、上京して大学(東京帝国大学でしかありえない)に入るため熊本から東京に行く。

なので、別の1907年にこだわることもないのだけれど、今日のおいらのユーレカ!は、

あの東京裁判で東條のはげ頭ピシャリの、われらが大川周明センセは、



1907年に熊本の第五高等学校を御卒業あそばされ、東大の文科、正式には東京帝国大学文科大学 (2回もデーガクをつけるな)、に御入学。第五高等学校の同期には重光葵(法科)がいた。つまり、ふたりそろってA級戦犯となったことになる。


-市ヶ谷で同窓会-

■大川は『米英東亜侵略史』などを著し、米英撃滅のイデオローグとなる。一方、重光は外相として大東亜会議を開催した。

▼大川はインド学者であったが、それも西洋経由、西洋的学問手法でのものであったのであろう。ある日、突然、インドが英国の支配下にあることに「気づき」衝撃を受ける。

▼重光が大東亜会議を開催したのは、戦争の目的をはっきりさせようとする政略的動機に基づく。大戦は単なる「自存自衛」戦争でなんかない。戦争は政治の手段であり、政治目標をちゃんと立て、達成されれば戦争は止める。そういう戦略、思想。

▼大東亜会議は、実はその2年前の米英による大西洋憲章へのカウンターパンチに他ならない。つまりは、西洋流を以って西洋に対峙しようとするものである。これこそ、近代日本の大原理。

ちなみに、米英、つまりチャーチルとローズベルトが大西洋憲章のために船上会談した戦艦・プリンスオブウエールズは、大東亜会議が開催された時にはすでに大日本帝国陸海軍、われらが美幌航空隊!、によってシンガポール沖の海の藻屑となっていたことはいうまでもない。


 一式陸攻が天敵

■そして、その「西洋流を持って西洋に対峙しようとする」ための人材をつくったのが近代日本の学校制度。しかしながら、<西洋人になること>に励んでも、根本は「日本人」であるから、摂取した<西洋>が体内で異化を起こす。そこで、内なる西洋の<悪魔払い>をしようとするものが現れる。これは、いんてりである。なぜなら、西洋を摂取しようとするのはいんてりだけだから。これがいんてりの米英撃滅化発現のメカニズム。高村光太郎が典型。大川もそうなのだろう。重光は違うようなきがする。

●それで、漱石は? もし漱石が戦争まで生きていたらどうなってであろうか?あのままのクールか、米英撃滅を、高村のように、絶叫したのかな?


朝日社員


首相&先輩    A級先輩
対米従属外交   国連中心外交 


■こんどこんな本↓
日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く
がでるらすい。 佐藤優センセ

浜松城

2006年03月15日 21時41分33秒 | 国内出張・旅行
浜松城

 野面積みの石垣

 天守からの見晴らし

 17年間ここにいました、家康。


武田軍がこの城の向こうをかすめて行軍していきました。
看過できない家康は、野戦に打って出ました。 三方ヶ原の戦い。
すっぱいしますた。うんこももぐしました。
その敗残の姿を絵師に描かせました。
自意識・自己認識・自己制御::「近代」人、家康。

「亡びるね」 @浜松駅

2006年03月14日 21時20分19秒 | 国内出張・旅行



 「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。

すると、かの男は、すましたもので、「亡びるね」と言った


  --漱石、『三四郎』、東海道線浜松駅での三四郎と初対面のやせた男との会話--

■浜松に日帰り出張。仕事は午後なのであるが、お散歩時間を捻出するため、朝早くから筑波山麓を出発。浜松は初めて。浜松で知っていることは上のことと、戦時中は日本で一番B29からの爆弾が落とされた街であること。

■さて、富士山。なぜ『三四郎』で、ある初対面の男、のち広田先生、に漱石は日本は「亡びるね」と、浜松で言わせたのか。これは、西から東上する二人が、浜松を出立したあと富士山を見るからである。広田先生の持論に富士山が不可欠である。

 三四郎はべつだんの答も出ないのでただはあと受けて笑っていた。すると髭の男は、「お互いは哀れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、 いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭 園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ 富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物 だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔か らあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってま たにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらな かった。どうも日本人じゃないような気がする。

そうなのだ。広田先生は日露戦争後の自信をつけて、浮かれはじめた日本に、自然天然物である富士山だけの価値を認める。『三四郎』は日露戦争の3年後の話とされているので、1907年あたりの設定となる。それから40年もせず大日本帝国は滅亡する。

まあ、あの世の漱石もびっくりだろう。

■なぜ、浜松に多量に爆弾が投下されたかというと、B29は富士山を目印にサイパン・テニアンから日本本州島に飛来侵入した。この遠州灘上空で目的の各都市を襲うため分岐する、そして、帰りには、一旦富士山を目指して飛行し、またここからサイパンに帰る。したがって、余った爆弾を、遠州灘に最近の都市である浜松に、処分していったとのこと。浜松の空襲回数は多すぎて把握されていないとのこと。

■皮肉なことに広田先生の誉めた富士山のおかげで、広田先生の予言はより実現され、浜松は亡びた国の中でもさらなる滅亡の憂き目にあったことになる。浜松は空襲だけでなく、艦砲射撃も受けた。

1945年 浜松
↓「クレーター」が見える。これは空爆ではなく、艦砲射撃での砲弾の爆発のよるものらしい。

ここの展示↓

お城を目指して、ぶらぶら歩いていたらばったり見つけた 浜松復興記念館

 


ふくろう

2006年03月13日 20時35分43秒 | その他

ふくろう. つくば市のある蕎麦屋の店頭にて.


「もしも両刀階級のものをこの日本から追い払うことができたら、この国の人民には服従の習慣があるのであるから、外国人でも日本の統治はさして困難ではなかったろう」

アーネスト・サトウ



   
    両刀階級の殲滅 → 外国人統治


 
両刀づかい階級


一夜で多輪 おいらの梅

2006年03月12日 16時38分07秒 | 草花野菜


■見ちゃった。ちぇぶらーしか・フジワラセンセ。今朝の報道2001。 生の政治報道番組に緊張したのか、NHKのトーク・コラム番組(録画?)と違って、顔が怖かった。さらには、チックなんだね、フジワラセンセ。

■小気味のいい啖呵の連発で、きもちよし。小気味いいわけは、論理がすっきりしているから(自己欺瞞!)。 望外にカタルシスだったのは、皇統問題で、慣習は世俗の憲法や内閣や議会がとやかくいえる筋合いではない!というばかりでなく、天皇自身も慣習にはとやかくいえない!と喝破したこと。

■統帥権干犯狩りの青年将校みたいでいいよね。でもこういう原理主義って、論理原理主義だとおもうけど。

▲それにしても、女系天皇容認派も、その判断にいたった、あるいは、せざるをえなかったのは、現実に後継天皇がいなくなる可能性があったこと。そしてその状況は、なにもGHQの占領政策ばかりでなく、そもそも薩長新政府が朝廷を廃したこと、ひろひとさんが側室という制度をやめたことにある。グッバイ、ちょんまげ!もすこす関与。 特に、側室という制度をやめたことが一番の原因である。

▲男系というきまりなのだから、それを守れというのはたやすい。むしろ、側室を復活せよ!と藤原が主張するなら、その伝統主義はホンモノだろう。しかし、藤原もそれをいうと世間に受け入れられないことをわかっているのだろう。世間の声など関係ないというならば、真っ先に側室復活を宮内庁に訴えればいいのではないだろうか?

▲それにしても、世論なんてあてにならない、と主張する御仁がなぜ本など書いて世論に訴えるだろうか?もちろん、おれの本はエリートが読むのだと言われれば、筋は通るが。


 星亮一 『会津落城』P2から転載.

藤原は、「弱いものいじめをする根性」や「勝ち馬に乗ろうとする根性」を卑しいものとして唾棄する。まったくもってそのとおり。上記は戊辰戦争で会津に攻め込んだ諸藩である。全国の諸藩がよってたかって会津を撲滅したのである。彼らこそ、「勝ち馬に乗ろうとする」皇軍=天皇の軍隊に他ならない。 戦争で殲滅しただけでなく、戦死者の埋葬をも禁止したことは以前書いた。
 埋葬禁止 愚民党大臣 島村宜伸

■藤原は、一方で、薩長の会津撲滅に憤っている。藤原が言語道断で尊崇しなけれならいと主張する皇室の軍隊を卑怯よばわりすることは、論理的には錯乱しているといわねばならない。 しかしながら、論理なんてものに頼るからダメなので、論理に先立つ情緒こそ重要なのだという藤原「論理」に従うならば、それは問題ないのであろう。 つまりは、おれサマが情緒で思いつたことは、論理が成立しなくとも、肯定されるべき命題なのだ!ということだ。 <おれサマ化するおばか(自称)「保守」おやじ>の氾濫である。

■「一万人の殺人犯がいても国は滅びないが、一万人のエリートがいないと国は滅びる。」 いいね。そのとおり。おいらも、一万人のエリートがきちんと統治する国で、おもいっきり安心して、鼻くそほじりながら、おばかなことをほざいて暮らしたいね。それがおいらの夢だっちゃ。

 
国は滅びるし、家は焼けるし. でも散歩.

▼東大法学部でも1800人いて、ゼミ参加とか卒論を書く機会を得る人は少なくて、大半は座学だけして、卒業していくんだってね(伝聞)。やっぱ、そういうビンボーくさい教育はやめたほうがいいじゃないんかな。

■「今の日本全体は腐っている。」まったくもってそのとおり。だから、百万人の『国家の品格』を真に受ける民がいるわけだ。森喜郎(仮名)みたい田舎のおっさんが、「日本はすばらしいんだ!」「つべこべいわず、いままでどうり、オレさまのいうよに、やればいいんだよ!」「そうだよ、理屈ばっかりいううやつはダメなんだ」と言い出しそうでこまっちまう。

■これは、おいらががんきんちょのころ、漬物工場に勤めていたじっちゃんのこと。トヨタのカンバン方式なるものを聞きかじってきた社長(信念@浅沼さん、仮名)が、従業員の背中と腹に、<目指せ!売上倍増>とか<石狩づけの鮭の切り身係り>とか書いた看板をぶらさげさせ、仕事をさせていたことを彷彿させる。

■じっちゃんは、晩酌で焼酎を飲みながら、小声で♪~♪~サンドイッチマン、~♪~サンドイッチマン、~♪おいらは街のどーけもの~♪~と情けなさそうに歌っていたのを思い出す。

■「たかが経済!」って、言ってみたいよね。お金がないって、お金がないということだけでなく、従属した人生を強いられるということ。税金から千万以上のお給金を取って、「自由」な身分でいいよね。旧国立大学・現独立行政法人、どっちにしてもtax eater、の教授さま。

●難民の子供も国を憂うるほど成長されてなによりである。おいらはがきんちょのころ、ラジオで藤原ていの回顧を聞いた。特に強烈に記憶に残っていることは、最後の朝鮮での決死の強行軍とあわせて、渡満前の長野での生活。田んぼの泥につかってよつんばいになって農作業をしていると、あぜ道をきれいに着飾った<貴族>が通るのを、ていが見たときの回顧。ていがどう思ったかを表現した言葉そのものは忘れたが、それは素朴で強烈な雑民の情念であったはずだ。当時おいらは、長野・土地ない・満州への大量移民とかの知識がなかったが、なぜかしら強烈な印象をうけた。

■田んぼの泥につかってよつんばいになって農作業や子供三人を連れての難民逃避行とか、藤原正彦をあらしめているものは、案外、武士道などではなく、雑民のたくましさだとおもうのだが。他人様のことだ、大きなお世話だすね。そして、今後の日本は、武士道など失われてしまったものなのだから、雑民のたくましさが唯一の生存の術だと、おいらは思う。

●現在日本の問題は、雑民が、高度経済成長の結果、あたかも銀のスプーンをくわえて生まれてきたがごとき錯覚をして、雑民の生存に不可欠な術としてのたくましさや「雑民道」を捨て去っていることである。その勘違い銀スプーン組が、いか@サマ本『国家の品格』を真に受ける読者なであろう。

■「日本語」を大切にしよう、日本国民はみんなで高度な日本語運用能力を身に付けようというのは賛成だけど、それはなにも伝統とは関係ないよ。「日本語」なんて<たかが>150年の産物だよ。もしあなたが死んであの世で4代前以上のご先祖さまに会ったら、あなたが大名や旗本の家系でないかぎり、言葉は通じないと思うよ。


チック仲間

■勝ち馬の印

        昔 → 今

●3/21記す。内田センセは、『国家の品格』って、ちょっと夜郎自大かも、とやんわり、そしてかなり、いささか、手厳しくおしゃっているのでしょうか?

>>私がアメリカ人なら(私はそういう種類の想像ばかりしている人間であるが)たぶんこの本を読んで「けっ」と思うだろう。
この本を読んで日本人読者が「溜飲を下げる」箇所の多くは、外国人が読んだら「むかつく」箇所である。<<

とか、内田センセはいうけど、外国人でなくとも、誇りある雑民なら、「けっ!」とおもうもんじゃないだろうか。





最初の一輪 おいらの梅

2006年03月11日 20時07分16秒 | 草花野菜

最初の一輪 おいらの梅

 氏(朝日論説委員大塚氏)の話に、過日(3月10日の東京大空襲のこと)東京の焼けたる時、罹災者は皆疲れて路傍に座して居たるも、軍の自動車二台、泥水をけつて来り、美しく着こなせる参謀数名視察に来るものあり。彼等力失せたる罹災民は皆期せずして一せいに立上がり、「お前達の為にかうなったのだぞ、それを視察とはなんだ」とののしり、為に遂にすごすご彼らは退散したる由なり。今日も軍の命令とて、今出川付近六十米の家屋に、五日の期限にて強制立退きを命じたりと。暴虐国史に比なし。 ( )内は、いか@.

細川護貞、『細川日記』 昭和20年3月19日、これは京都で東京の「うわさ」を記したもの。
この参謀は「露払い」か? ↓御大のお出まし。(昭和20年3月18日)



皇国の荒廃この一帯にあり

筑波山麓 「珈琲哲学」

2006年03月10日 20時04分22秒 | 筑波山麓


筑波山麓の変な名前のふぁみれす系コーヒー屋

この建物やメニューなどパッケージのフランチャイズらしい。長野や群馬にチェーン店がある。ただ、資本が違うらしく、このパッケージを各県の資本がフランチャイズして各自の地元で展開しているようだ。たとえば、茨城県では、ある会社が手広くいろんな種類の系列の店舗を展開しているようだ。

ここ数年の都会での個人的カフェの極小規模展開と対照的に田舎ではこういうふた昔前のラブホ的建物が展開しているのだろう。



店内は落ち着いていたよ。


フルーツパンケーキ。 パンケーキってホントは、おいしいのはバターとメイプルシロップだけでいただくと、塩気と甘味が入り混じっておいしいのだけど。

この日のパンケーキは、上に邪道なものを載せたせいか、硬くつるつると進まなかった。
もちろん、ふぁみれす系なので、チンしただけなのだろうから。
無理して全部食べたので、げふ・げふになってしまった。

今度は、パフェにするよ。



パパと呼ばないで

2006年03月09日 18時51分58秒 | 日本事情

我 朝上古ノ制海内挙テ兵ナラサルハナシ、有事ノ日、天子之カ元帥トナリ丁壮兵役ニ堪ユル者ヲ募リ以テ不服ヲ征ス。役ヲ解キ家ニ帰レハ農タリ工タリ又商賣タリ、固ヨリ後世ノ双刀ヲ帯ヒ武士ト称シ抗顔坐食シ、甚シキニ至テハ人ヲ殺シ官其罪ヲ問ハサル者ノ如キニ非ス。

 『徴兵告諭』 明治5年の薩長クーデター政府による太政官告諭の冒頭部分より

 武士ト称シ抗顔坐食シ、=武士と称して、あつかましくもはたらきもしないくせに、ただめしを食い、

甚シキニ至テハ人ヲ殺シ =場合によっては人を殺し

官其罪ヲ問ハサル者ノ如キニ非ス =当局はそれを無罪とみなしていた

 ■金銭につきても、きびしき心得ありて、自ら手にすること許されず。年に一回盛夏のころ、鎮守諏訪神社の祭礼の日にかぎり銭を使うことを許され、白玉の買い食いもできたりとはいえ、銭の支払いは自ら勘定して渡すを禁ぜられる。かならず銭入れのまま商人に渡し、彼をしてとらしむる習慣なり。白玉六個入り一箱四文、豆鉄砲、お面など、それぞれ十文なりと記憶す。

『ある明治人の記録 -会津人柴五郎の遺書-』第一部 故郷の山河、より

--ぶすはぜにっこにさわるべからず。--

これは上の『徴兵告諭』(大村益次郎と山県有朋によって推進されたとされる)で抗顔坐食と罵倒された正真正銘の武士であった会津藩士・柴五郎の回顧である。

 柴は、10歳のとき、戊辰戦争・会津戦争で一家は壊滅した。祖母・母・義姉・姉・妹は自刃。その人生の足取りを見出しで拾うと、悲劇の発端、憤怒の城下、散華の布陣、狂炎の海、絶望の雨夜、幕政最後の日、殉難の一族郎党、俘虜収容所へ、学僕・下男・馬丁、地獄への道、餓死との戦い、荒野の曙光、海外か東京か、新旧混在の東京、わが生涯最良の日と続く。

その最良の日とは柴が陸軍幼年学校に及第する日である。これは皮肉にも、柴自身が「薩長の策士、禁裏の謀臣とはかりて明治幼帝を擁し、新政の主導権を握らんとすること明らかなれど」と記述する、いか@サマ国家の陸軍の学校に入学することにほかならない。

■その後の柴は、明治34年(1901)に義和団反乱
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-hokusin.html

に果敢に対処し、 ピーターフレミング執筆 「北京籠城」 に;

「日本軍を指揮した柴五郎中佐は、籠城中どの士官よりも有能で経験が豊かであったばかりか、誰からも好かれ尊敬された。当時日本人と付き合う欧米人は殆どいなかったが、この籠城事件を通じてその考えが変わった。

日本人の姿が模範生として、皆の目に映った。日本人の勇気、信頼性、明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも、間接的にも、一言の非難を浴びていないのは、日本人だけである。」

http://www10.plala.or.jp/yosioka/syougen.htm と書かれることとなる。

掃き溜めの鶴柴五郎。


--柴五郎; 会津武士. 祖母・母・義姉・姉・妹は薩摩に姦られる前に自刃--


 掃き溜め派、とミカドさま
      「薩長の策士、禁裏の謀臣とはかりて明治幼帝を擁し、新政の主導権を握らんとすること明らかなれど」


●日本人は誇りと自信を欲しているのだろうか?それにしても、すがるものがあまりに.....。

あるブログより;

例えば「ひとを何故殺してはいけないか。」「なぜ、弱いものいじめをしてはいけないか。」というあたりまえのことを、論理で話すことにより逆にひとには伝わりにくくなるものである。だめなものはだめなんだということも必要であるという精神を昔から日本人はもっていました。それが戦後教育により、アメリカナイズされたことにより、そんなことすら論理で話すようになってしまったということです。 http://blog.goo.ne.jp/nakayamatomoyasu/e/74125e5bd852e9d49885fc932f40844a

▼言うのもべたでいやなんだけれども、武士の本質は戦闘者であることである。もちろん治者であることも重要であるけれども、その治者たる権威は彼が戦闘者であり、戦闘能力を維持していることである。戦闘能力を維持には、体力、知力、胆力が必要だ。それらの総合が武士である。人を殺すこと、自分が殺されること、さらには政治的儀式として自分が死ぬことを達成できるように常日頃準備していなくてはいけない。つまりは、人をいつどのように殺すべきか、殺さざるべきかを論理的に考えているのが武士である。

▼さて、徳川家康というのは、なんでもありという、西洋の社会科学のモデル社会にしかない状況(万人が万人に対して狼である状態)で、現実にバトルロアイヤルを勝ち抜いて日本の治者になった。なんでもありと書いたがまあ唯一の例外は天皇は殺してはいけないぐらいだろうか。なので、治者になるために敵を殺す。バトルロアイヤルの最終戦の豊臣家の殲滅は、そのいいがかりにはじまりすさまじいものがある。それが武士のやることなのだ。生きる・殺す・死ぬことをシロクジチュウ考えて、かつ最も現実的に生きたのが家康と家康傘下の武士たちである。そのバトルロアイヤルの過程で武士というものは鍛えられ、生成された。

▼もちろん、万人が万人に対して狼である状態から将軍の絶対制になることで、社会に平和が実現された。こんな、政治学の教科書にあるマンガのようなお話が実話なのだ。武士「道」というのはそのプロセスでの生成文化であり、その後の徳川時代を生きる・殺す・死ぬことをシロクジチュウ考えて平和を作ってきた。具体的にいうと、平和な江戸時代でも、大名は首をとられるとお家が断絶となる。なので、参勤交代とか、おんもに出ている最中にぼんやりしていて殿様の首がはねられてもっていかれるとお家がお取り潰し。その例に井伊直弼。直弼は首を取られたが、井伊家の家臣が首級を取り返して、家に持ってかえって胴体とつないで、家で死んだことにして、お家断絶を免れた。かように、武士は毎日が戦闘者として生きることを、建前上は、求められていた。(まあ、実際は、鼻くそほじったり、ぼんやりしてるのもいたんだろうけど、泰平の江戸時代は)

▼逆にいうと、武士という生き方は上記のような社会文脈なしでは何の意味もない。実際の社会文脈から離れた、武士の精神、とかはいか@サマに違いない。武士がえらいのは全くそのとうりであるが、現在の日本人には全く関係ない。もちろん、おいらにも、そして日本のすみからすみまで武士の高貴な精神は見当たらない。もし、現在の日本で武士を考えることがあれば、それは全く失われたもの、今の日本人の#$%さには無縁なものとして接しなければいけない。そうでなければ、武士に対してあまりにも無礼である。 だいいつ、ぶすは、銭っこさわっちゃいけねえ、。今はみんなさわってるべ。


文明男子の目的は、銭っこ

▲武士の最大の威厳の源泉は、死んでみせることができること、である。

いわゆる・ひとつの、able to perform to terminate his life by himself with the Harakiri methodである。

事実、白虎隊や新撰組や赤穂浪士は死んでみせたのである。今日現在、そんなことして、言って恥ずかしくないか!?という政治家、大臣が元気に、自刃することなく、生きていることこそ、現代日本が武士とはなんら関係ないことを端的に示すことはいうまでもない。


<恥知らず>こそ、あらまほしけれ。 長生きバンザイ!
↑おばか末代、「こけて、よかった」
↓おばか初代 「日本語廃止」

▼さて、生きる・殺す・死ぬことを論理的に考えることが武士の本義であるとするならば、その「武士道」を突然持ち出し、なぜひとを殺してはいけないか?疑問に思い、論理的に考えることはよくない、などいうのは錯乱しているというよりほかない。なぜ人を殺してはいけないのか?ということに疑問をもつことと、人殺しでも何でもありと思うことは、当然、違うことである。むしろ、人を殺してはいけない!と問答無用にいう人の方が何でもありという生き方になりやすいのではないか?事実、藤原の本を読んだ上記ブロガーは;

 最近藤原正彦さんという数学者の書いた国家の品格を読みました。この本は今日本で一番人気のある本のひとつです。藤原さんはこの本で、日本の行くべき道筋を描いておられました。論理からは何も生まれない。 むしろ日本人がむかしながらの武士道を今一度見直しその精神で国家づくりをしていけばすばらしい国に生まれ変わるであろうということをおっしゃっていました。

 論理からは何も生まれない。 として、どうして言葉で文章が綴れるのか全然わからない。全く錯乱している。

 ▲一番とんでもないのは、http://www.1101.com/watch/2003-07-01.html 武士道を始めとする高貴な日本文化がGHQのせいで廃せられたという愚痴である。そんなことはないことは冒頭の日帝の布告にあるとおり、武士を撲滅したのは日帝政府である。さらには、旧制高校など戦前の「エリート」教育を礼賛するが、ばかもやすみやすみ言って欲しい。戦争への翼賛体勢下で軍部の要求に、デクノボウのごとく判をおして、予算をつけたり、法整備をしたのは、旧制高校・帝大の文官の「エリート」さまである。


武士撲滅にかけた半生。
そういえば<ラストサムライ>に自殺勧告をしたのはこの御方.

■.....,三人の息子達に、(乃木)将軍の殉死を、溢れる想いを懸命に抑えながら語ったが、「死にたい理由が他にあったんじゃないの」とか「パパも真似してみたら」などと、

.... 雑誌『文芸春秋』2005年12月号、「消える日本語」の藤原担当分、<武士の情け>より

 息子にパパって呼ばせる武士って......

                         
パパ武士↓/元日帝侵略赤ちゃん      パパと呼ばないで