いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

パパと呼ばないで

2006年03月09日 18時51分58秒 | 日本事情

我 朝上古ノ制海内挙テ兵ナラサルハナシ、有事ノ日、天子之カ元帥トナリ丁壮兵役ニ堪ユル者ヲ募リ以テ不服ヲ征ス。役ヲ解キ家ニ帰レハ農タリ工タリ又商賣タリ、固ヨリ後世ノ双刀ヲ帯ヒ武士ト称シ抗顔坐食シ、甚シキニ至テハ人ヲ殺シ官其罪ヲ問ハサル者ノ如キニ非ス。

 『徴兵告諭』 明治5年の薩長クーデター政府による太政官告諭の冒頭部分より

 武士ト称シ抗顔坐食シ、=武士と称して、あつかましくもはたらきもしないくせに、ただめしを食い、

甚シキニ至テハ人ヲ殺シ =場合によっては人を殺し

官其罪ヲ問ハサル者ノ如キニ非ス =当局はそれを無罪とみなしていた

 ■金銭につきても、きびしき心得ありて、自ら手にすること許されず。年に一回盛夏のころ、鎮守諏訪神社の祭礼の日にかぎり銭を使うことを許され、白玉の買い食いもできたりとはいえ、銭の支払いは自ら勘定して渡すを禁ぜられる。かならず銭入れのまま商人に渡し、彼をしてとらしむる習慣なり。白玉六個入り一箱四文、豆鉄砲、お面など、それぞれ十文なりと記憶す。

『ある明治人の記録 -会津人柴五郎の遺書-』第一部 故郷の山河、より

--ぶすはぜにっこにさわるべからず。--

これは上の『徴兵告諭』(大村益次郎と山県有朋によって推進されたとされる)で抗顔坐食と罵倒された正真正銘の武士であった会津藩士・柴五郎の回顧である。

 柴は、10歳のとき、戊辰戦争・会津戦争で一家は壊滅した。祖母・母・義姉・姉・妹は自刃。その人生の足取りを見出しで拾うと、悲劇の発端、憤怒の城下、散華の布陣、狂炎の海、絶望の雨夜、幕政最後の日、殉難の一族郎党、俘虜収容所へ、学僕・下男・馬丁、地獄への道、餓死との戦い、荒野の曙光、海外か東京か、新旧混在の東京、わが生涯最良の日と続く。

その最良の日とは柴が陸軍幼年学校に及第する日である。これは皮肉にも、柴自身が「薩長の策士、禁裏の謀臣とはかりて明治幼帝を擁し、新政の主導権を握らんとすること明らかなれど」と記述する、いか@サマ国家の陸軍の学校に入学することにほかならない。

■その後の柴は、明治34年(1901)に義和団反乱
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-hokusin.html

に果敢に対処し、 ピーターフレミング執筆 「北京籠城」 に;

「日本軍を指揮した柴五郎中佐は、籠城中どの士官よりも有能で経験が豊かであったばかりか、誰からも好かれ尊敬された。当時日本人と付き合う欧米人は殆どいなかったが、この籠城事件を通じてその考えが変わった。

日本人の姿が模範生として、皆の目に映った。日本人の勇気、信頼性、明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも、間接的にも、一言の非難を浴びていないのは、日本人だけである。」

http://www10.plala.or.jp/yosioka/syougen.htm と書かれることとなる。

掃き溜めの鶴柴五郎。


--柴五郎; 会津武士. 祖母・母・義姉・姉・妹は薩摩に姦られる前に自刃--


 掃き溜め派、とミカドさま
      「薩長の策士、禁裏の謀臣とはかりて明治幼帝を擁し、新政の主導権を握らんとすること明らかなれど」


●日本人は誇りと自信を欲しているのだろうか?それにしても、すがるものがあまりに.....。

あるブログより;

例えば「ひとを何故殺してはいけないか。」「なぜ、弱いものいじめをしてはいけないか。」というあたりまえのことを、論理で話すことにより逆にひとには伝わりにくくなるものである。だめなものはだめなんだということも必要であるという精神を昔から日本人はもっていました。それが戦後教育により、アメリカナイズされたことにより、そんなことすら論理で話すようになってしまったということです。 http://blog.goo.ne.jp/nakayamatomoyasu/e/74125e5bd852e9d49885fc932f40844a

▼言うのもべたでいやなんだけれども、武士の本質は戦闘者であることである。もちろん治者であることも重要であるけれども、その治者たる権威は彼が戦闘者であり、戦闘能力を維持していることである。戦闘能力を維持には、体力、知力、胆力が必要だ。それらの総合が武士である。人を殺すこと、自分が殺されること、さらには政治的儀式として自分が死ぬことを達成できるように常日頃準備していなくてはいけない。つまりは、人をいつどのように殺すべきか、殺さざるべきかを論理的に考えているのが武士である。

▼さて、徳川家康というのは、なんでもありという、西洋の社会科学のモデル社会にしかない状況(万人が万人に対して狼である状態)で、現実にバトルロアイヤルを勝ち抜いて日本の治者になった。なんでもありと書いたがまあ唯一の例外は天皇は殺してはいけないぐらいだろうか。なので、治者になるために敵を殺す。バトルロアイヤルの最終戦の豊臣家の殲滅は、そのいいがかりにはじまりすさまじいものがある。それが武士のやることなのだ。生きる・殺す・死ぬことをシロクジチュウ考えて、かつ最も現実的に生きたのが家康と家康傘下の武士たちである。そのバトルロアイヤルの過程で武士というものは鍛えられ、生成された。

▼もちろん、万人が万人に対して狼である状態から将軍の絶対制になることで、社会に平和が実現された。こんな、政治学の教科書にあるマンガのようなお話が実話なのだ。武士「道」というのはそのプロセスでの生成文化であり、その後の徳川時代を生きる・殺す・死ぬことをシロクジチュウ考えて平和を作ってきた。具体的にいうと、平和な江戸時代でも、大名は首をとられるとお家が断絶となる。なので、参勤交代とか、おんもに出ている最中にぼんやりしていて殿様の首がはねられてもっていかれるとお家がお取り潰し。その例に井伊直弼。直弼は首を取られたが、井伊家の家臣が首級を取り返して、家に持ってかえって胴体とつないで、家で死んだことにして、お家断絶を免れた。かように、武士は毎日が戦闘者として生きることを、建前上は、求められていた。(まあ、実際は、鼻くそほじったり、ぼんやりしてるのもいたんだろうけど、泰平の江戸時代は)

▼逆にいうと、武士という生き方は上記のような社会文脈なしでは何の意味もない。実際の社会文脈から離れた、武士の精神、とかはいか@サマに違いない。武士がえらいのは全くそのとうりであるが、現在の日本人には全く関係ない。もちろん、おいらにも、そして日本のすみからすみまで武士の高貴な精神は見当たらない。もし、現在の日本で武士を考えることがあれば、それは全く失われたもの、今の日本人の#$%さには無縁なものとして接しなければいけない。そうでなければ、武士に対してあまりにも無礼である。 だいいつ、ぶすは、銭っこさわっちゃいけねえ、。今はみんなさわってるべ。


文明男子の目的は、銭っこ

▲武士の最大の威厳の源泉は、死んでみせることができること、である。

いわゆる・ひとつの、able to perform to terminate his life by himself with the Harakiri methodである。

事実、白虎隊や新撰組や赤穂浪士は死んでみせたのである。今日現在、そんなことして、言って恥ずかしくないか!?という政治家、大臣が元気に、自刃することなく、生きていることこそ、現代日本が武士とはなんら関係ないことを端的に示すことはいうまでもない。


<恥知らず>こそ、あらまほしけれ。 長生きバンザイ!
↑おばか末代、「こけて、よかった」
↓おばか初代 「日本語廃止」

▼さて、生きる・殺す・死ぬことを論理的に考えることが武士の本義であるとするならば、その「武士道」を突然持ち出し、なぜひとを殺してはいけないか?疑問に思い、論理的に考えることはよくない、などいうのは錯乱しているというよりほかない。なぜ人を殺してはいけないのか?ということに疑問をもつことと、人殺しでも何でもありと思うことは、当然、違うことである。むしろ、人を殺してはいけない!と問答無用にいう人の方が何でもありという生き方になりやすいのではないか?事実、藤原の本を読んだ上記ブロガーは;

 最近藤原正彦さんという数学者の書いた国家の品格を読みました。この本は今日本で一番人気のある本のひとつです。藤原さんはこの本で、日本の行くべき道筋を描いておられました。論理からは何も生まれない。 むしろ日本人がむかしながらの武士道を今一度見直しその精神で国家づくりをしていけばすばらしい国に生まれ変わるであろうということをおっしゃっていました。

 論理からは何も生まれない。 として、どうして言葉で文章が綴れるのか全然わからない。全く錯乱している。

 ▲一番とんでもないのは、http://www.1101.com/watch/2003-07-01.html 武士道を始めとする高貴な日本文化がGHQのせいで廃せられたという愚痴である。そんなことはないことは冒頭の日帝の布告にあるとおり、武士を撲滅したのは日帝政府である。さらには、旧制高校など戦前の「エリート」教育を礼賛するが、ばかもやすみやすみ言って欲しい。戦争への翼賛体勢下で軍部の要求に、デクノボウのごとく判をおして、予算をつけたり、法整備をしたのは、旧制高校・帝大の文官の「エリート」さまである。


武士撲滅にかけた半生。
そういえば<ラストサムライ>に自殺勧告をしたのはこの御方.

■.....,三人の息子達に、(乃木)将軍の殉死を、溢れる想いを懸命に抑えながら語ったが、「死にたい理由が他にあったんじゃないの」とか「パパも真似してみたら」などと、

.... 雑誌『文芸春秋』2005年12月号、「消える日本語」の藤原担当分、<武士の情け>より

 息子にパパって呼ばせる武士って......

                         
パパ武士↓/元日帝侵略赤ちゃん      パパと呼ばないで