いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

じゅげむ・じゅげむの弁当箱

2006年03月30日 20時30分03秒 | 日本事情



じゅげむ・じゅげむの、枢密院議長議定官元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵

 であらせられた

山縣有朋センセの、匹夫時代の弁当箱。

 (支那の易姓革命;賎しき匹夫も君となる by 宣長)
 (ぬほんのいすん;賎しき匹夫も君となりさえしなければなんでもあり)

■山縣有朋。日本での反政府集団どころか、毛利家においてさえ反体制少数派であった青年暴力集団(指導者;高杉晋作)において、文字通り槍働きからはじめて、藩内闘争、対政府(徳川幕府)戦争、戊辰戦争、西南戦争と日本人」を殺しまくり、大日本帝国を自分でつくり、維持、発展させ、さらには支那とロシアと戦争し、日帝政府、特に陸軍を統括すました。

■1922年に84才で死ぬ。そのわずか23年後、大日本帝国も滅亡する。帝国の滅亡後、皇帝は「昭和の軍閥には山縣のような人物がいなかった。それが滅亡の一因だ。」と言ったとされる。それだけ、ひろひとさんに評価されていたので、偉大な人物といえるのだが、逆にいえば、「山縣のような人物」を再生産する機構を山縣は作りえなかったともいえる。

■山縣の生涯を、最近かじってみると、それはあまりに特殊で、絶対的に個別的なものとしかいいようがない。つまりは芸術ということか。山縣の伝記でにこにこしたのは、山縣が偉大な庭師であったこと。趣味いいじゃん。おいらは、彼の邸宅はてっきり買っただけのものと思っていた。

●国内外からの、夜店のバッタモンみたいな、ワッペンや勲章よりも、狂介時代の弁当箱こそ輝いていたのですた。 そして、なにより、野戦の合間に弁当をつかっている、ただのあんちゃんでしかなかったアリトモ青年を想像すると、いつもバトーして、ゆるしてけれ、というきもつがこみあげてくるのですた。

            
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