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いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

蛤御門の変+大東亜戦争=皇帝追放・属領化

2007年04月23日 19時42分08秒 | インド・3回目・シンガポール


- - このあたりメーラット。 - -




1857年のインド大反乱(セポイの乱)が起きた街。蜂起したシーパーヒー(日本流ではセポイ)は、英国人50人を殺したあと、メーラットから50kmほどのデリーへ向かう。目的は、形ばかりとなり、実権のないムガル皇帝・バハードゥル・シャー2世 Bahadur Shah IIを擁立し、ムガル帝国を再興して英国を追い払うためである。

おいらは、数日にわたる農村での飯場仕事の後、デリーへ向かう。メーラットを通ることはわかったていたので、その農村で、メーラットに何か「インド大反乱」に関する史跡はないか?と聞きまわるも、ないとの答え。運が悪かったのは、一緒に仕事をするためデリーから同行したインド人スタッフが、歴史なんて知らない!とのこと。ガイドになってもらう野望が潰えた。そもそも、「インド大反乱」がわからなかった。そこで、お客さんである相手方、インドの中産階級、インテリと話すと、もちろんインド大反乱は知っていたが、史跡はない!とのお答え [1]。別になにか観光施設を求めていたわけではなく、旧駐屯地を、今は何もなくとも、見てみたいと思ったのだが、その希望自体が、どうやら向こうさんには通じていなかったようだ。つまりは彼らには「史跡探訪」という概念がないのではないかとその時も今も思う。ちなみにデリー生まれ、デリー育ちのchemistで、クトゥブミナールの錆びない鉄柱を知らない御仁がいた。

[1] その後、次のインド出張の時に、転げ慄く毛唐兵像を見る。

インド人は歴史に疎いとの説があるが、真偽は知らない。TIT出の秀才ちゃんたちはみんなもちろんインド大反乱はもちろん、チャンドラボース、そして彼の遺骨が今も東京にあることを知っていた。もっとも彼らは、ボースと同じ、ベンガル出身だったのだが。つまりはボースは郷土の英雄なのだ。

反乱は何の戦略もなく、英国支配への反感による熟成で自然発生的におきたのであろう。そんな戦略なき反乱でも、無意識に歴史を てこ にして現状を覆そうとした。王政復古の大号令。皇帝を奪取し新政権を打ち立てようとした。

           
            ぼくたちの、一時的な、成功。だって、帝はがきんちょ。

もっとも敵は 同じ「民族」の幕府 ではなく、毛唐さんである。英国人をたくさん殺した。 でも、すっぱい した。英国は巻き返した。 皇帝は捕まり、show trialの運命をたどる。その時の写真がこれらすい。

 
担いだのは老帝. exile to Burma


ビルマに追放される。最後のムガル帝国の皇帝。 これで、ムガル帝国は形式的にも終焉し、英国女王を戴くインド帝国となる。

塗った者勝ち

つまりは、蛤御門の変と対毛唐さん戦争・大東亜戦争をいっきにやってしまい、1945年の大日本帝国の運命にさきがけて、インドはアングロサクソン(えげれす)の属領・属民となったのである。

細かい法理論は追えないが、おおざっぱに言って、英国がインド帝国の根拠としたのは、「おいらのインド、あんたにあげます」という上記最後のムガル皇帝の一筆だと思う。つまりはインドの求心力を逆手にとってイギリスのインド支配に転じて利用したのだ。

■ これは他人ごとだろうか?

皇室の日本での求心力を逆手にとって、日本を従属させているのが、新世代あんぐろさくそん・米国様である。対米従属の基本法であるマッカサー憲法を、たぬきの葉っぱをお金だとみなすように、日本で流通させているのは、ひろひとさんの憲法発布に他ならない。


show trialは免れたよ。 マック憲法、発布するよ。今後は「マック幕府」の将軍様の言うことちゃんときいてね! ぎょめー・ぎょじ。

        
  exile(退位)要請!   ←非国民! 



ぼくたちのすっぱい。The very show trial!


exile to あの世


でも、「人民裁判」で、無罪勝ち取ったよ!

どうする!? 脱米独立志向の右翼さん!