志摩地方から伊勢市に隣接する度会町(奥伊勢地方)にかけては、中央構造線外帯の三波川変成帯、及びさらに南の秩父累帯(古生界)や四万十累帯北半の日高川帯(中生界)に、地層の走行方向に沿って膨縮・断続して胚胎するマンガン鉱床が分布し点在している。
その殆どは、明治の末頃から大正時代に発見され、昭和初期から戦後にかけて、一時的に採掘し、出鉱していた小規模なマンガン鉱山で、今もそれらの鉱山跡10数箇所が各地に程残存する。
その主なものは、二見恵方鉱山(通称「松下鉱山」、伊勢市二見町松下)、伊勢鉱山(国見山鉱業株式会社「伊勢鉱山」、伊勢市矢持町菖蒲)、鳥羽鉱山(旧 加茂鉱山、鳥羽市河内町奥河内)、三平福徳鉱山(鳥羽市川内町奥河内)、松尾鉱山(鳥羽市松尾町)、池畑鉱山(鳥羽市白木町?)、大阪旭鉱山(志摩市磯部町)、鸚鵡石鉱山(志摩市磯部町恵利原)、浜島鉱山(志摩市浜島町大崎)、立神鉱山(志摩市阿児町立神)、畔名鉱山(正式名不明につき仮称、志摩市阿児町畔名口の付近にあったらしい)、小川鉱山(度会郡度会町小川)、栗原鉱山(度会郡度会町栗原)、第二栗原鉱山(度会郡度会町栗原)、日向鉱山(度会郡度会町日向)、南勢鉱山(度会郡度会町脇出付近?)である。
この内、通商産業省鑛山局発行、昭和30年度の「鑛山製錬所名簿」(第一部「金属鉱山の部」)の三重県欄に記載されているのは、三平福徳鉱山と栗原鉱山だけである。但し、その年度に両鉱山が稼行していたかどうかは定かではない。
又、昭和43年度の同名簿では、三重県のマンガン鉱山の記載は、鳥羽鉱山と山田鉱山(阿山郡大山田村真泥)の2鉱山だけであり、昭和45年度の同名簿を見ても同様であるので、この当時に稼行していた当地方のマンガン鉱山は、鳥羽鉱山だけである。
詳しいマンガン関係の書物や文献によると、「鳥羽鉱山」は戦後は経営者が度々変わり、名称も加茂鉱山から鳥羽鉱山へと変更されて、断続的に採掘・出鉱をしいていたらしく、学生時代に何度か見学・採集に行った折、鉱夫さんからそのような話を聞かせて頂いた記憶がある。
当地方のマンガン鉱山は、殆どが坑道掘りであ り、各地に坑道跡が残存しているが、比較的良質の鉱石を出鉱し、大々的に採掘をしていたのは、鳥羽鉱山、三平福徳鉱山、立神鉱山(戦前)、浜島鉱山(戦前)、栗原鉱山(主に戦前)である。
「日本のマンガン鉱床」(吉村豊文 著・1952年発行)等の書物には、三平福徳と栗原を除いた3鉱山については詳述されているが、他の文献を調べても、「栗原鉱山」については、下記に転載する文献の記述があるだけで、稼行当時の鉱山の状況や産出鉱物種についての調査報告書等は、皆無と言ってよい。
7万5千分の1 地質図幅「鳥羽」(飯塚保五郎 編纂・1929) の「地質説明書」によれば、「應用地質 一、滿俺鑛 滿俺鑛ハ志摩郡加茂村、磯部村、度會郡中嶋村及ヒ小川郷村ニ存ス、内重ナルモノハ加茂村及小川郷村ノモノナリトス(…中略) 小川郷村ニ於ケルモノハ字栗原東山ニアリテ約三十年前ノ發見ニ係リ附近ノ地質ハ粘板岩、砂岩、及角岩ノ互層ニシテ地層ノ走向ハ北六十五度西乃至東西ニシテ南方ニ五十二度乃至八十二度傾斜セリ、鑛層ハ粘板岩中ニ介有セラレ西部ニ於テハ一鑛層ナルモ東部ニ於テハニ鑛層ニ分岐セルモノヽ如シ、鑛層ノ厚サハ平均一・二乃至一・五米ニシテ最肥大部ハ約三米アリ、延長約七百米ニ亙リテ膨縮断續ス、鑛石ハ主ニ硬滿俺鑛及菱滿俺鑛ニシテ薔薇輝石ヲ伴ヒ月産額三百噸、品位ハ百分中四十「パーセント」、八幡製鉄所渡シ一噸二十四圓七十五銭ナリシモ巡囘後約半ヶ年ニシテ廢業セリト云フ」
以上の他に、栗原鉱山の記述が見られるのは、昭和12年12月5日発行の「三重教育」(三重県教育會発行・No.498)で、その中に「探鑛の旅」と言う紀行文(地質旅行記)があり、その内の「度會・志摩の巻」の文中ぐらいである。その内容については、以下に記す通りである。
「(…前文省略) 栗原の村外に栗原鑛山事務所がある。立寄って休息し鑛山の様子を聞き鑛石を見せてもらった、黒色の酸化滿俺と、灰紅色の炭酸滿俺とを産してゐる。(…後文省略)」
栗原鉱山の沿革や稼行当時の様子については、地元の古老に聞く以外に無いが、栗原でもこのマンガン鉱山の事を知っている人は殆どいない。
さて、栗原鉱山跡には、学生時代より20回は行ったと思う。伊勢市岩渕の自宅からだと約15km、自動車で約20分~30分の距離である。ここ3年程行っていなかったので、その後、ズリや山の尾根に沿って数箇所穿たれた坑道跡がどうなっているのか、少し気になっていたし、きれいな菱マンガン鉱等の鉱石が、どれだけ残っているのかと言う期待もあって、4月6日の水曜日に探訪の機会を得た。
この日は、前々日まで停滞気味だった前線がかなり南の海上まで南下していて、本州はすっぽりと高気圧に覆われて、朝早くから上天気であった。鉱山跡へは、かねてから懸案になっていた大阪のI氏のご案内である。
栗原鉱山へは、県道22号線(伊勢-南島線)を宮川の右岸に沿って遡り、途中の川口から先は、支流の一之瀬川の左岸を数分走ると栗原に付く。バス亭前の栗原橋を渡って本郷の村道に入り、山際のお寺(清光寺)の前を通ってから右折し、東方の小谷に入る坂道を少し登る。この先の林道の入口までは、道は狭いが簡易舗装が成されている。
栗原橋からおよそ750m行った所で、左手の民間施設に行く道と、目の前の谷川に沿って山に入る林道に分岐するが、ここから先は、車一台がどうにか通れる幅の、荒れたままのガタガタ道である。この右手の林道を250m程登って行くと、鉱山跡直下の上り口の山麓に至る。
林道奥の行き止まりには、車止めの駐車スペースがあるが、ここから先は判りにくい細い山道になる。すぐ先に、放置され荒れほうだいとなっている野面積(のづらずみ)の棚田が数段あるが、これを横切りU字型の木馬道の跡を越えて暫く登ると、ズリ石の散乱する擂鉢状の急斜面(ガレ場)に至る。
ここを、西向きにせり出した海抜220m程の上方の尾根まで、約80mぐらい登る。途中、半ば立ち消えとなった九十九折の草分け道や炭焼き窯の跡に出くわすが、この辺りから真っ黒な鉱石が散在し、山土にまみれて見え隠れしているので、ピンク色の出そうな塊鉱をかち破って探す。
木立ちのブッシュを潜りぬけると、急斜面の上端は廃坑前の小広い棚場になっていて、坑口の崩れた坑道や往時のままの坑道が尾根を挟んで10数箇所残存しているが、いずれも比較的浅い感じである。
当たり一帯に散乱する真っ黒な鉱塊やバラストは、見かけ上は全て二酸化マンガン鉱である。どの坑道から菱マンガン鉱やバラ輝石が産出していたのかは良く解らないが、見分けるのにはコツがあって、慣れればかなりの高確率でピンクの良質の鉱石が採集出来る。
栗原鉱山は、マンガン鉱物の種類が豊富な事と、特にピンク系の鉱石は他所の鉱産品と比較して、その色合いが大変きれいで、研磨をするとカット石のきれいな裸石(ルース)や、見事な色彩の鑑賞石(水石の「桜マンガン石」)になる。
この日は、久しぶりに良質の菱マンガン鉱を袋一杯採集する事が出来たが、I氏共々獲物が重たすぎて、急斜面を降り下るのが大変であった。
参考までに、これまでに採集した栗原鉱山産の主な鉱石鉱物と、脈石鉱物を記載しておきます。
二酸化マンガン鉱(軟マンガン鉱、硬マンガン鉱、忍石、他)、ヤコブス鉱、チョコレート鉱、緑マンガン鉱、含マンガン赤鉄鉱、バラ輝石、菱マンガン鉱、マンガン方解石、方解石、ベメント石、テフロ石、ヨハンセン輝石、パーセッテンス石、ペンウィス石、マンガン石榴石、マンガン緑簾石、重晶石、燐鉱、黄鉄鉱、黄銅鉱、赤鉄鉱、石英(水晶)、玉髄質石英、鉄石英、碧玉
(写真の栗原鉱山産の鉱物は、全て筆者の採集品で、標本のサイズは3cm~7cmです)