語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【戦争】おやじ、一緒に牧野村へ帰ろう ~戦没者の遺族の声~

2015年09月29日 | 批評・思想
 (1)木村迪夫(農民詩人/山形県上山(かみのやま)市牧野在住)は、10歳にして父を亡くした。1946年春、出征先の中国で戦病死したのだ。
 それからおよそ70年経た今夏、木村は父親の最後の地を訪れた。

 (2)「もう思い残すことはない」と自宅で語る木村の、最新の詩が次の「まぎの村へ帰ろう」だ。
   敗戦から七十年
   父親の果てた中国への思いは
   わたしの心から長い年月消え去ることはなかった
   父親の死地は武漢から長江沿いを二〇〇キロほど下った黄崗(こうこう)という三国志にも出てくる街の郊外の
   余家湾という静かな農村であるという
   わたしの瞼から
   少年時に別れた 父親のたくましさも
   心やさしい面影も
   ついぞ消え去ることはなかった
   七〇年もの長い年月
   そう 七〇もの長い年月

   わたしはとうとう余家湾にやってきた
   「おれの声が聴こえるか」
   「この叫ぶ声が
    あなたの耳もとに届いたか」
   いまわたしはあなたの面前に立っている
   末の弟のテルオも
   あなたの面影ははっきりと二人には見える
   瞼に映って見える
   一緒に帰ろう
   姉や妹たちの待っている
   日本へ帰ろう

   母親の眠る まぎの村へ
   祖母が悲しみと怨念のうたをうたって逝った
   まぎの村へ

   おやじよ
   七〇年ぶりの親子ともどものまぎの村へ
   いまも緑濃い大地へ
   そして田圃へ出よう
   田植をしよう
   畑へ行こう

 ここで「中略」としなければならないが、この詩は、

   ふたたび戦争などない
   まぎの村の未来へ
   一緒に帰ろう

と結ばれる。

 (3)木村の母は典型的な軍国の花だった。だから、木村の叔父の良一が戦死した時には、「良一はお国のために死んだんだ」と言っていた。
 しかし、続いて父の文左エ門の死を知った祖母は、三日三晩泣き通した。
 「ばばはん、まま(飯)くてけろ」
と木村の母親が呼びかけても泣き続け、食わないと死んでしまう、というと、 
 「死んだほえ(死んだほうがいい)、死んだほえ」
と食膳に向かうことを拒んだ。そして、
 「天子さまのいたずらじゃあ! むごいあそびじゃあ!」
と叫びながら、以後、神棚に手を合わせることがなくなった。

 (4)日本の日の丸はどうして赤いのか。そう問いかけて、木村の祖母は自ら答える。 

   にほんのひのまる
   なだてあかい
   かえらぬ
   おらがむすこの
   ちであかい

 還らぬ自分の息子の血で赤いのだ、と。

 (5)木村は、働き手を戦争に奪われた戦争遺族の悲哀を厭というほど味わってきた。自分のような遺族、遺児をもう生んではいけない、と木村は語る。
 そんな彼を描いたドキュメンタリー映画
   「無音の叫び声 農民詩人木村迪夫の牧野村物語」
が山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映される。

□佐高信「おやじ、一緒に牧野村へ帰ろう ~新・政経外科 第47回~」(週刊金曜日」2015年9月18日号)
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【詩歌】会田綱雄「鴨」

2015年09月29日 | 詩歌
 鴨にはなるなと
 あのとき
 鴨は言ったか

 ノオ

 羽をむしり
 毛を焼き
 肉をあぶって食いちらしたおれたちが
 くちびるをなめなめ
 ゆうもやの立ちこめてきた沼のほとりから
 ひきあげとうとしたときだ

 「まだまえだ
  骨がしゃぶれるよ」

 おれたちはふりかえり
 鴨の笑いと
 光る龍骨を見た


□会田綱雄「鴨」(『鹹湖』、緑書房、1957):第一回高村光太郎賞
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 【参考】
【詩歌】会田綱雄「醜聞」
【詩歌】会田綱雄「聖家族」
【詩歌】会田綱雄「鹹湖」
【詩歌】会田綱雄「伝説」