宗派によっては、「追善供養」を大きく掲げておられるところもありますが
浄土真宗の味わい方をご紹介。
阿弥陀如来
(真如から、覚りに疎い、フツーの人間を救済するため、現れてくださった仏さま)に 心を合わせて生き、人間としての命を終えたものは、
阿弥陀仏の救いにより、浄土(真如の世界)に生まれ、仏(真理の覚者)と完成する
つまり、故人は 覚りの仏さま なのだから
追善供養(故人の冥土での幸福を祈って、お経聞かせてあげることで、「善」をふり向けること)は 必要ない
覚りから ほど遠い私が 覚りの仏さまに対して 「してあげる」ことなんて、何~も ない
と、聞くと
「何~だ、じゃあ 法事(供養)なんて、しなくて いいじゃないか
」
と、思う方が多い・・・
はい、「追善供養」ならば、必要ない
あるいは、「供養してあげないと、生きている者にタタリがあるかもしれない」という自分に厄が起こることを心配して、お祓い の意味でする、全く、仏さまに対して無礼きわまりない供養ならば、必要ない
じゃあ、何のために法事をするのか
繰り返し、くどいですが・・・
覚りに ほど遠い フツーの人間が
より多く、阿弥陀如来の前に 謙虚に座り、
普段、合わすこともない手を合わせ、
普段、口にすることもない「南無阿弥陀仏」を称える機縁をもつ
そういう「仏縁」作りの一つが、故人を縁とした法事です。
故人は阿弥陀如来と同じはたらき で 私に「仏・覚り」に目を向けるように願っておられます

「法事なんて、面倒くさいこと、したくない」と、
仏さまに心をあわせようとしない私を悲しんで見ておられるのであります。
そう言う意味で、本当の「法事」=自分が仏法に心を合わせる仏事 を 数多く持ってください
と、読んで、「何だ、これは、法事を多くして、お寺がお布施を得るために、言っているんじゃないの
」
と、またまた思われたアナタ、
お寺を預かっている者の使命は、仏法を伝えることです。
つまり、僧侶自身も含めて、一同、仏さまの前に座る 「ご縁」 を たくさん持つように 勧めるのが 責務ですので・・・
浄土真宗の味わい方をご紹介。


阿弥陀仏の救いにより、浄土(真如の世界)に生まれ、仏(真理の覚者)と完成する
つまり、故人は 覚りの仏さま なのだから
追善供養(故人の冥土での幸福を祈って、お経聞かせてあげることで、「善」をふり向けること)は 必要ない

覚りから ほど遠い私が 覚りの仏さまに対して 「してあげる」ことなんて、何~も ない

と、聞くと
「何~だ、じゃあ 法事(供養)なんて、しなくて いいじゃないか

と、思う方が多い・・・
はい、「追善供養」ならば、必要ない

あるいは、「供養してあげないと、生きている者にタタリがあるかもしれない」という自分に厄が起こることを心配して、お祓い の意味でする、全く、仏さまに対して無礼きわまりない供養ならば、必要ない

じゃあ、何のために法事をするのか

繰り返し、くどいですが・・・

より多く、阿弥陀如来の前に 謙虚に座り、
普段、合わすこともない手を合わせ、
普段、口にすることもない「南無阿弥陀仏」を称える機縁をもつ
そういう「仏縁」作りの一つが、故人を縁とした法事です。
故人は阿弥陀如来と同じはたらき で 私に「仏・覚り」に目を向けるように願っておられます


「法事なんて、面倒くさいこと、したくない」と、
仏さまに心をあわせようとしない私を悲しんで見ておられるのであります。

そう言う意味で、本当の「法事」=自分が仏法に心を合わせる仏事 を 数多く持ってください

と、読んで、「何だ、これは、法事を多くして、お寺がお布施を得るために、言っているんじゃないの

と、またまた思われたアナタ、
お寺を預かっている者の使命は、仏法を伝えることです。
つまり、僧侶自身も含めて、一同、仏さまの前に座る 「ご縁」 を たくさん持つように 勧めるのが 責務ですので・・・
