浄土真宗に、修行はありませんが、ただ「聞く」ということを大切にします。
お寺で、あるいは、家庭の法要で仏法を聞く・・・ただ、素直に仏さまの仰せを聞く・・・
これは簡単なようで、非常に難しいことです。
特に「素直に聞く」ってことが・・・
何しろ「自分は、そこそこ教養ある常識人だ」という自惚れ意識があるので、
仏さまのことも自分の頭(理屈)で理解しようとします。
「何だ、お寺で仏法を聞け聞けと言うわりに、ヘタクソな法話をしやがって」
「実生活に何の役にたたない話ばかりして・・・」と。
たぶん、精神修養、道徳論ならば、「なるほど」と「理解」できるのでしょうが、
「阿弥陀仏」とか「念仏」とか聞いた途端、「ゲッ抹香臭~い、自分には関係ないもんね~」と、なってしまう。
この「自分は常識がある」という「自分の執着心」こそが問題だと、それに気づかないと、さとりには至らないのですよ というのが、「南無阿弥陀仏」なんですが・・・
それを伝える側も、聞く側も、ホント難しいと思います。
お寺で、あるいは、家庭の法要で仏法を聞く・・・ただ、素直に仏さまの仰せを聞く・・・
これは簡単なようで、非常に難しいことです。
特に「素直に聞く」ってことが・・・
何しろ「自分は、そこそこ教養ある常識人だ」という自惚れ意識があるので、
仏さまのことも自分の頭(理屈)で理解しようとします。
「何だ、お寺で仏法を聞け聞けと言うわりに、ヘタクソな法話をしやがって」
「実生活に何の役にたたない話ばかりして・・・」と。
たぶん、精神修養、道徳論ならば、「なるほど」と「理解」できるのでしょうが、
「阿弥陀仏」とか「念仏」とか聞いた途端、「ゲッ抹香臭~い、自分には関係ないもんね~」と、なってしまう。
この「自分は常識がある」という「自分の執着心」こそが問題だと、それに気づかないと、さとりには至らないのですよ というのが、「南無阿弥陀仏」なんですが・・・
それを伝える側も、聞く側も、ホント難しいと思います。
本当
難しいですね (^^ゞ
聞かない方が悪いのではなく、話す方が悪い、と思うことにしています。
1たす1は2だよ。わかった?
と言っても、1たす1は3と解釈する人は多いし、それ以前に聞いていません。
それも、話す側の態度、興味の引き方、話術、すべてが責任と考えています。
情報(この場合仏教の教え)を伝えようとする場合、受け手にはなんの責任もなく、伝える側に100%の責任がある、と割り切ります。
だから、私は教官や管理者のとき、相手の関心を引くように、またわかりやすく、話しました。それでも、理解しない相手には、相手に応じた話ができなかった自分が悪い、と思います。
結局意志疎通できずに終わることも少なくありませんが、腹は立ちません。
そうですね。難しいですね。
特に聞く気がない時は、「素直に」なんて聞きません。
ふくろうさん
実に大切なご至言をありがとうございます。
仰るとおり、特に仏法を伝えるのは、一般の講義ではないので、伝える側の責任が100%なんでしょうね。
確かに関心の引き方、わかりやすさ、心に響く言葉・・・話術に長けた布教使さんのお話はグッと引き込まれます。
私は何も分かっちゃいないのに、エラソウに人前でお話させていただいたり、こうしてブログで「ひとりごと」を書かせていただていますが、
「よくわからんが、あのオバサンは、仏教好きゆえ、なんだか一生懸命話しているよね~」と、
内容は、ともかく、熱意だけ伝われば充分かと思っております・・・です。(←不勉強の言い訳?)
ただ、伝える側の全面的責任を覚悟として持っておく方が、諸事楽というか、知恵が出ます。
私がこんなことを考えたのは、実はこんな体験からです。
職業上学生も多かったし、馬鹿な教官の話を聞くより積極的に寝る学生だった私ですが。
ある教官は、まったく寝せてくれません。話が面白いのです。内容もあるし、話術も格別。
それから、私は寝る学生より、眠れない講義をしない教官が悪い、と考えています。