お寺のオバサンのひとりごと

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善人と悪人

2008年10月20日 | 仏教
 昨日の「若婦人の集い(真宗基礎勉強会)」では、歎異抄第3章「悪人正機(阿弥陀仏の救いの目当ては悪人である)」をテーマに

 親鸞聖人の仰る「善人」「悪人」について、一緒に味わってみました。

 第3章は「善人でさえ、浄土に往生できるのです。まして悪人は言うまでもありません」(現代語訳)という文章で始まります。

 世間一般の「常識」からいうと、「はあ 善人と悪人が逆だろう 『悪人でさえ浄土に往生できるのだから、善人は言うまでもない」だろう」と、思うのですが・・・
 
 私の愛読書「漫画 歎異抄」本願寺出版には、こう書かれています。
 p82「道徳的に言えば その通りですが でもこれは人の行為を判断して モラルを説いているんじゃなくて 阿弥陀さまの お慈悲が どこに向いているかという話なんです」
 
 人間の価値判断による善悪って、時代や場所、都合によって変わったりしますよね。 テロ行為も一方では正義(善)で、他方では「悪」。
 例えば、お年寄りに席を譲るのは善だけど・・・体の具合が悪い若者が、(元気な)お年寄りに席を譲らず、座り続けているのを見たとき、事情を知らない周囲は、若者を「悪」とみる。
 p85「ある時は愛欲のおぼれ、ある時は憎悪に満ちながら たえずゆれ動き 生きている限り 煩悩の支配から抜け出すことのない ほかでもない この私が 悪人なのです」

 私は仏教で言う「善悪」とは、自覚の問題だと味わっております。
 
 自分の価値判断だけで、私は立派に生きていると思っているのが「善人」
 
 仏さまのこころ(願い)をいただいて、自分をよ~く見つめてみたら、自分は善人どころか、その時の「縁」(状況)によっては、何をしでかすか わからない 危うい私である という「悪人」の自覚

 私たちが道徳的に考える「善悪」を超えた阿弥陀様の大きな慈悲のこころ

 私以外の「悪人」に向けられているんじゃなく、「この私」こそ、「悪人」で阿弥陀さまの救いの目当てだったんだ と・・・

 
コメント (3)
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