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アメリカ人は外国語映画(この、アカデミー賞の部門にもなっている言葉をよく考えてみよう。色々なことがうかがえるはずだ)を観る場合、よほどのインテリでもないかぎり字幕版は選択しない。というか、吹替でしか事実上アメリカでは商業上映できないのだ。
日本で圧倒的に字幕版が多いのは舶来信仰が強いからだろうか。字幕と吹替にはそれぞれメリットがあるけれど、字幕版は何よりも“オリジナル”なのが強み。演ずる俳優の息づかいまで堪能したいとファンなら考えるはずだ。では吹替版はそれよりも劣っているのだろうか。
情報量が圧倒的に違う、とはよく言われること。確かに、字幕ではセリフをすべてカバーすることはおよそ不可能。字数制限もあるしね。しかしそれ以上に、声優や翻訳家が日本人の観客に訴えかけるハートの問題もあるんだと思う。フィックスでいえば、声優たちは自分が担当する俳優が次にどんな動きをするかまで、完璧に予想できるレベルにいる。そしてその解釈をもとに日本の観客にどんなニュアンスで演じればいいのかと腐心しているのだ。
それに、英語と日本語では、主語と述語の関係性など、言語の成り立ちからして違っているので直訳では苦しいし、俳優の個性に合わせて翻訳することも必要だ。たとえば刑事コロンボとコジャックでは、同じ言葉でもかの額田やえ子はこう変化させている。
You gotta be kidding.
コロンボ→「ホントですか、それ」 コジャック→「なめるんじゃねえよ」
That makes sense.
コロンボ→「ごもっともです」 コジャック→「筋は通ってる」
これはやはり一種の文化だと思う。吹替を二流の存在と見下すなど、無益である以上にもったいないことが理解できる。山寺宏一のアテレコに至っては、ひょっとしたらオリジナルを超えていると感じられるぐらいだ。ただ、タレント人気にのっかって「タイタニック」を妻夫木聡と竹内結子にやらせて大失敗に終わったようなことを続けていると、吹替人気も時代の徒花に終わってしまうのかもしれないけれど……。
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