スタンダードナンバーのタイトルを借り、過剰なまでのハードボイルドタッチで、貧乏で、タフで、心優しい私立探偵を描く傑作短編集。1980年から83年まで、FM東京(Tokyo FMではなく)で日下武史が独白体で語った伝説のプログラムが、ソフトバンクによって二度目の復刊。やはり、お好きな方は多かったのだ。ほとんどギャグではないかと思われるような華麗なレトリックが、かろうじてハードボイルドの側にふみとどまっているのは矢作俊彦の芸というものだ。こんな感じである……
たしかに、きれいなオフィスとは言い難かった。背広の生地で信頼を計るような客は、まず坐らぬうちに帰ってしまうだろう。
秘書もいない。テレックスもない。ファイル・ケースは錆びている。
取り柄といえば、東と南に窓があり、陽あたりがおそろしくいい上、そこから、数十年前にキング・コングが登ったビルと、つい最近キング・コングが登ったビル、新旧ふたつがいっぺんに見えることくらいだ。
~OH,MY PAPA~
海が揺れている。正午の陽が揺れている。その向こうにマンハッタンが見える。水平線にけぶるマンハッタンは、大砲のない軍艦だ。皺くちゃの銀紙みたいな水面(みなも)でそのすべてが揺れている。
~ANGEL EYES~
女神だって女だ。美しい女が、ベッド以外の場所で、天国の門を開けてくれるだろうか?
~I CAN'T GET STARTED~
アスファルトを往く足音が、メジャー・セブンスに変わった。空は高く、どこまでも遠く、マンハッタンの背丈も、さすがにその天辺には届いていなかった。
ユニオン・スクウェアに散りはじめた木の葉の上では、リスが冬に備え、この街ではめったにおめにかかれない地道な努力という奴をくり返していたが、生まれがよすぎるばっかりに、その日暮らしをやめられない私立探偵の目には、どう考えてもあてこすりとしか映らなかった。
~IN-HIGH~
「私の人生は結局復讐だったわ」
「誰への?」と聞いて、私は次の言葉を呑んだ。
「誰にでも」と彼女は答えた。
「ひとつの愛に裏切られたって理由だけで、女は世界中に復讐する権利を手に入れるのよ」
~All THE THINGS YOU ARE~
午後になって、雨は止んでいた。家々の屋根に乗っかった無数の給水塔が、淡い陽にちかちか輝いていた。三角帽子を被った小人たちが白雪姫に一目会おうと世界中から集まってきたみたいだった。それなら、その向こうに屹立しているエンパイア・ステート・ビルが、当のお姫さまというわけだ。しかし、それはあまりにも冷たく、高く、頼りなく、毒リンゴを売りに来た婆さんの方が相応しい。
東の方で雲が割れ、光がハドスン河に差し込んでいる。
小人たちが踊る。リンゴ売りの婆さんが揺れる。
~LEFT ALONE~
……ため息が出る。この芸に惹かれて、光文社文庫→角川文庫→ソフトバンク文庫と姿を変えるたびに購入する羽目になった……単に物持ちが悪いだけ?
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