事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

「昭和の劇」 その5~226

2008-02-03 | 本と雑誌

前号繰越226

笠原が語る、天皇、そして天皇制をめぐる暗部のつづき……

笠原:結局、二・二六事件というのは壬申の乱だったんだと。つまり大正帝に子どもができなくて、貞明皇后に何人か男をあてて、それで子どもを生ませていったと言うんだね。「だからあの兄弟は顔が違いますよ」と。裕仁さんにしても、秩父宮、高松宮、三笠宮と、全部顔が違うと。それで貞明皇后なんだけど、女というのは最初に押しつけられた男というのをイヤがりますわな。それで、ものすごく長男……裕仁さんに拒否反応を持ったらしいんですよ。それで秩父宮さんを溺愛したらしいんです。だから、貞明皇后としてはなんとしても裕仁さんを外して、第二子の秩父宮を天皇の座に送りたいというのがあったんですね。それを画策したのが山県有朋でね。だから、昭和天皇の妃を決定する際、色盲問題があったでしょ。
宮中某重大事件ですね。
笠原:そう。それで結局、山県は宮中クーデターに失敗したわけだよ。
-宮中某重大事件って、活字でしか知りませんでしたけど、なんであんなに重大なのかわからなくて(笑)。

……昭和維新としてしか省みられない二・二六事件も、裏側から見れば歴史上何度も行われた継承のゴタゴタが絡んでいる。首謀者の安藤大尉が銃殺される際に、一人だけ「天皇陛下~」ではなく「秩父宮陛下万歳」と叫んだ理由がここで理解できる。彼と安藤の間には何らかの密約があったわけだ。秩父宮はまた、終戦時、今上から御殿場から一歩も出るなと厳命されているにもかかわらず、無断で記者会見をし「天皇が退位したあとは自分が引き受ける」たぐいの発言をしたという。それを聞いた昭和天皇は激怒し……

Princes 笠原:昭和天皇は、自分は天皇の子ではない、サラブレッドではないということはわかっている。駄馬であると。駄馬であるからこそ、天皇という位を与えられた時、自分は死んでもこの位を守らなければいけないと。それは天皇であるが故に、というんじゃなくて、人間としてそういう義務を果たさなきゃならないと考えている。だから、あれくらい辛抱強い人はいない。

……この本の面白さは、ことの真偽はともかく、わたしたちが天皇問題に限らず、近代史をほとんど学校で教えられていないことにもよるんじゃないだろうか。文中の宮中某重大事件にしたって、名前だけは知っていても、その裏事情まで突っ込んで教えてくれる人は当時も今もめったにいない。わたしは日本史を(なんと理系だったので)高校時代にも習ったことはないのだけれど、裕仁の万世一系に疑義があることは高三の三学期あたりで教えてくれてたんですか(笑)。少なくともわたしは目からウロコがバランバラン落ちまくったし、底流にある日蓮宗の熱狂(石原完爾がそうでしたね?)や、今上の考え方(心の中では父親を否定しているらしい)についても、少しはお勉強をしなければならないと考え込まされた。あ、宗教といえば創価学会も……

しまった、今回で終わるはずだったのに。しかも映画の方には一言もふれていない(笑)。三浦友和の演技以外はふれる価値もない映画だったんですが。

※宮中某重大事件
大正9年から翌10年にかけて起こった皇太子裕仁(後の昭和天皇)の妃決定をめぐる紛糾事件。妃に久邇宮良子が決定したところ、元老山県有朋が、良子の母系の島津家に色盲遺伝があるという理由で婚約に反対。首相原敬、元老西園寺公望とも協議のうえ、内定を破棄しようとしたところ、東宮侍講として皇太子の教育にあたっていた日本主義思想家・杉浦重剛らが反発。杉浦の友人・頭山満が山県、原への一大反対運動を展開し、暗殺を計画する団体も出るに至った。この騒動は宮内省の、内定に変更なしとの発表で決着がついたが、これにより山県は枢密院議長の辞任を申し出、爵位、勲等の拝辞を声明。翌大正11年に死去した。

……いやーお勉強になりますね。大正オールスター総出演の事件。絶対に映画化はできないだろうが。画像は手前が貞明皇后、後ろ左から裕仁、秩父宮、高松宮。わたしは似ていると思うけどなあ。以下次号

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