村上春樹によるレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウものの長編新訳第6弾。これまでに刊行されたのは
「大いなる眠り」
「さよなら、愛しい人」
「高い窓」
「リトル・シスター」
そしてあの傑作「ロンググッドバイ」。
この「プレイバック」は、完結したなかでは最後の長篇(未完の「プードル・スプリングス物語」はロバート・B・パーカーが書き継いでいる)。この作品がなぜ高名かといえばこのセリフのためだ。
If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to alive.
「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」
角川映画のCMでバンバン流れたので一気にメジャーに。そして一気に陳腐化したのでご存じの人も多いはず。この訳は生島治郎の著作で言及されたのが元になっているとか。
このセリフをどう訳すのか、とやたらに訊かれる、と村上は苦笑まじりにあとがきで解説している。
「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」
これは映画の字幕でも有名な清水俊二訳。
「ハードでなければ生きていけない。ジェントルでなければ生きていく気にもなれない」
二村シリーズでチャンドラーへの傾倒をあからさまにした矢作俊彦訳。
「冷徹な心なくしては生きてこられなかっただろう。(しかし時に応じて)優しくなれないようなら、生きるには値しない」
村上春樹の直訳。さあ作品のなかで彼がどう訳したかは読んでのお楽しみ。
チャンドラーはむかし書いた短編を引きのばすのが得意技。だからプロットしては意外なほどシンプル。そこに加わるのが、誰もまねできないレトリックや風景描写だ。
この作品では、ホテルのロビーにたむろする、耳の聞こえない老人のセリフこそ読ませどころ。(その老人から見れば)若者である探偵マーロウへの(実は)激励は、年上の妻を亡くし、鬱に沈んだチャンドラーの本音でもあっただろう。代表的なところをちょっとだけ。
「広告板の裏で、毒を盛られた猫が痙攣しながら一人ぼっちで死んでいくのを見て、神は幸福な気持ちになれるのだろうか?人生が情け容赦ないものであり、適者だけが生き延びられることで、神は幸福な気持ちになれるのだろうか?適者というが、そもそもいったい何に適しているというのだ?いや、とんでもない話だ。もし仮に神がまさしく全知全能であるのなら、最初から宇宙なんてものは造らなかったはずだ。失敗の可能性なきところに成功はあり得ないし、凡庸なものの抵抗なくして芸術はあり得ない。神もまた、何もかもうまくいかない出来の悪い一日を持つことがあるし、神の一日はとんでもなく長いものだ。」