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事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

戦後の音楽文化PART7 演歌

2016-11-01 | 音楽

ザ・エン歌.MPG

PART6「ウエスタン」はこちら

「演歌」

1970年前後に成立するレコード歌謡の一ジャンル。ヨナ抜きと呼ばれる五音音階の旋律、七五調の歌詞、こぶしや唸りを強調する歌唱、オーケストラまたはビッグバンド編成の伴奏などを特徴とする。

「ヨナ抜き」明治以前から存在する伝統的音階。ドレミでいえばファとシが存在しない。 

……演歌の定義はとてもむずかしい。にしても驚かれないだろうか。1970年前後に成立した?ちょっと待ってよ。そんなに新しいのか。演歌とは日本の心であり、古賀(政男)メロディーで、韓国のメロディーが日本に移入されて、えーとあとなんだっけ。それらすべての言説は嘘だったの?

気になったので「創られた日本の心神話 『演歌』をめぐる戦後大衆音楽史」(輪島裕介著 光文社新書)を読んでみた。この、気鋭の音楽学者によれば

・演歌のルーツは明治期の自由民権運動における演説の歌だが、しかし現在の演歌というジャンルとはほとんど関係がない。

・60年代において、演歌的な(その頃は演歌と名のってもいなかったが)ムード歌謡は、低俗なものと蔑視されていた。

・しかし低俗だからこそ聖であるという反語を用いて、演歌をサブカル的に称揚したのが作家の五木寛之であり、ルポライターの竹中労(キネマ旬報の連載をわたし愛読していました)だった。

……74年生まれの著者は冷静にこの事実を積み上げていく。もちろん反論もあるだろう。しかし団塊以上の世代は、この流れを肌で感じていたのではなかったか。ある日突然、演歌(それは怨歌、艶歌とも表現された)というジャンルが発生したことを。

その象徴が、宇多田ヒカルの母親だった藤圭子ではなかったのか。彼女の壮絶な過去は、その暗いジャンルにうまくはまった……年長の人たちから怒られそうだな。

わたしは北原ミレイの「石狩挽歌」や八代亜紀(この人は自分のことを演歌歌手だとは思っていない)の「雨の慕情」は大好き。憂歌団の「ザ・エン歌」はもっと好き。この曲を知ったのは、松金よね子がラジオ番組に出演したときにリクエストしてくれたからでした。以下次号

ということで本日の一曲はその「ザ・エン歌」。憂歌団が三十年ほど前に酒田の文化センターでコンサートをやったとき、「じゃあ次は演歌を……」と言ってこの曲をやろうとしたというのに、偏狭な客が「ブルースをやってくれ!ブルースブルースブルース!」と絶叫したために木村はブルースに変更。おかげでこの曲が内田のギターとともに酒田で演奏されることはなかったのでした。うー。

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戦後の音楽文化PART6 ウエスタン

2016-10-31 | 音楽

The Band & Emmylou Harris 'Evangeline' 1978.avi

PART5「ゲイシャ・ワルツ」はこちら

戦後の音楽の方向性を決定づけたのは、やはり占領軍ではないだろうか。

「キャンプ」

アメリカ軍キャンプの音楽としては、ジャズと総称されたアメリカ系舶来軽音楽が広範に演奏されたが、戦前の日本のジャズとの顕著な相違点としては、カントリー&ウエスタン(当時は単にウエスタンと呼ばれることが多かった)と、のちにモダンジャズと呼ばれることになるビ・バップ以降のジャズの移入がある。

どちらも戦時中のアメリカで、音楽産業の既存のメインストリームとはやや別のところで台頭した音楽であり、前者であれば中西部や南部出身、後者であればアフリカ系のアメリカ軍将兵の直接的な要求と支持に基づいて日本に持ち込まれた新しい音楽といえる。

前者については、演奏が比較的容易なことや、西部劇的に理想化された「アメリカ」のイメージも手伝って、日本の高校生・大学生がバンドを組んでキャンプで演奏することが多かった。アメリカ本国では地方の庶民的な音楽であるウエスタンは、日本ではブルジョア子弟が主たる担い手になった。

そうした富裕層子弟のバンドは学校を卒業するとバンドから引退したが、放送やレコード会社、出版社への就職を通じて音楽産業に関わっていく者も多かった。その代表的な人物として、三井財閥の分家出身で、学生時代はバンド、ワゴン・マスターズを率い、その後日本テレビに入社して多くの音楽番組を手掛けた井原高忠がいる。

……ここで井原さんの名前が出てくるのか。

戦後すぐに、“趣味で”音楽をやる若者はなるほどブルジョアの子弟しかいないだろうし、田舎者が多かった米兵に感化されてウエスタンを始めるのは自然なことだ。日米において、かくしてねじれは生じたわけだ。

少し時代は下るけれども、アメリカ大使館の軍事顧問団に勤務した経歴を持つ人物も、現在の音楽界に多大な影響を与え続けている。英語名ジョン・ヒロム・キタガワJohnny H. Kitagawa。もちろんジャニー喜多川のことである。以下次号

本日の一曲は尾崎豊の「米軍キャンプ」にしようかとも思いましたが、あまりにそりゃベタなので(笑)、ザ・バンドとエミルー・ハリスが共演した「イヴァンジェリン」を。これは「ラスト・ワルツ」のバージョン。ということは撮ったのはマーティン・スコセッシだ。黒髪が美しかったエミルー・ハリスは、銀髪となったいまもきれいです。

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戦後の音楽文化PART5 ゲイシャ・ワルツ

2016-10-25 | 音楽

(改) 芸者ワルツ/神楽坂はん子 (本人歌唱ステージ)

PART4「合唱」はこちら

話がこむずかしくなってしまった。他にもこの本にはお勉強になるネタがてんこ盛りです。

「朝鮮戦争・特需」

(1950年の朝鮮戦争特需によって)あっけらかんと歓喜する日本人、冷ややかに批判を下す日本人の両者がいたのだが、音楽もそれらに符合していたように見受けられる。歓喜するほうでみれば、「君が代」や行進曲「軍艦」が街に響き渡ったり、特需景気に潤った新興成金層のお座敷ソングが氾濫していく状況があった。

お座敷ソングの草分けとしては、1949年に売り出され、51年に歌詞をよりエロチックに改作して大流行した「トンコ節」(作詞:西条八十、作曲:古賀政男)が挙げられる。52年には、神楽坂はん子の歌う「ゲイシャ・ワルツ」(作詞:西条八十、作曲:古賀政男)のヒットによって、お座敷ソングはさらに流行していく。

とはいえ、こうしたいわば桃色歌謡曲にあっても、単なるエロに終わらない悲哀や人間性の発露があったと考えられる。たとえば

「あなたのお顔を 見たうれしさに 呑んだら酔ったわ 踊ったわ 今夜はせめて介抱してね どうせ一緒にゃ くらせぬ身体」

と歌う「ゲイシャ・ワルツ」に対して、成金男性に従属する芸者の性(さが)と同時に、アメリカに従属する日本の悲しい性というメタファーを感じ取った日本人も当時少なからずいたのである。

……ゲイシャ・ワルツ(あなたのリードで島田もゆれる、ってあれですよ)をそこまで裏読みするか。ちなみに、炭坑節をひねった「トンコ節」とはこんな歌です。

「あなたのくれた帯どめの 達磨模様がちょいと気にかかる さんざ遊んで転がして あとであっさり つぶす気か」

うまいっ!しかしウィキペディアによれば、あの大宅壮一はこの歌を「声のストリップ」だとして西条八十を批判したという。わたしなどから見ると、花柳界という存在自体が一種のファンタジーにしか思えない。芸者さんと遊んで楽しいというのも、実は一種の才能でしょう。以下次号

 

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戦後の音楽文化PART4 合唱

2016-10-24 | 音楽

Chicago - 25 or 6 to 4 (Remake)

PART3「吹奏楽コンクール」はこちら

歌の話になったところで、合唱のもつ魔力についても考えてみよう。

国民合唱」(NHK)
「海ゆかば」や「みたみわれ」が大政翼賛会による国民皆唱運動で活用されたように、1943年以降の「国民合唱」は国民運動推進に寄与した。「皆唱」はいわば合唱の本質的性質であり、合唱と社会運動の連結は戦後の「うたごえ運動」にも見ることができる。一人の声が他者の声と重なり融合していく体験は、音楽的感動以外に、共同体意識を呼び覚ます。

……戦時中に、それこそ戦時色に染まりきった歌をガンガン放送したラジオ番組だから批判しているわけではないの。歌というのは、それほど強力だということなのだ。特に教職員はそのことを日々感じているのではないか。

「校歌」
私たちは小学校に入学すると校歌を覚え、中学・高校・大学と同様に校歌に遭遇する。また、小・中学校のころにはそれぞれの自治体の市歌・県歌に出会うケースが多い。その後、会社の社歌、工場の工場歌に接する人も少なくないだろう。私たちは人生のなかで所属する社会集団の歌に必ずといっていいほど出会う。

これらの歌謡の始まりは明治期だが、全国に普及していくのは、実は昭和期、ことに1930年代である。その中心的担い手は詩人・北原白秋で、彼は「国民歌謡」と自ら定義する有機的な歌謡体系を構築した。そこには、天皇統治の国家のあり方を称賛する「頌歌」=「国体歌」を頂点として、軍国主義国家日本の軍事全般を題材とした「皇軍歌」が続き、工場歌や社歌や市町村歌などの「団体歌」と、小学校から大学・専門学校までを対象とした「校歌」が連なり、さらに国民の日常生活を鼓舞する「生活讃歌」が組み込まれていた。白秋は、国民共同体・国家有機体を歌謡によって構築し、そこで国民たちの「皇民」的資質を喚起しようとしていたのである。

……へー。あの北原白秋がねえ。これは意外だ。この解説でもわかるように、歌によって“帰属”意識は確実に醸成される。だからこそ、どの中学校でも合唱コンクールが生徒指導的な意味合いもあって開催されるのだろう。達成感は比類がないほどだ。以下次号

本日の一曲は「あーさひーにはえーてー」という母校の校歌にしたいところですが、もちろんそんな動画はないし、学校自体も無くなってしまった(泣)。そこでブラスといえばこのバンド、シカゴ(祝ワールドシリーズ進出)の「長い夜」。ファンには怒られるだろうけれど、わたしはこのリメイクバージョンが大好きなんですよ。

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戦後の音楽文化PART3 吹奏楽コンクール

2016-10-22 | 音楽

Eurythmics - Miracle Of Love (Remastered)

PART2「全日本吹奏楽連盟」はこちら

この吹奏楽コンクールはなかなかルールが複雑で、下位大会で金賞をとれば上に行けるというものではなく、とっても上に行けない金賞を「ダメ金」と呼ぶのだとか。わけがわからない。

まあ、芸術系の人たちの考えることはよくわからないからなあ、と嘆じていればいいわけではなくて、どうもこの吹奏楽のありようは、他の体育系ととてもよく似ているし、教員のヒエラルキーがそのまま吹連にシフトしているとすれば(よく知りませんけれど)、競技団体と一定の緊張関係にある体育系よりも、部活動として異様だと思われるのは無理がない。

高額化する部費、楽器運搬などの重い保護者負担、外部講師と顧問の微妙な関係など、日本のスポーツが学校体育によりかかりすぎているのとまったく同じ構図。部活動がいびつであることを、体育系よりも如実に示しているのではないか。

ことは吹奏楽だけでなく合唱にも及んでいて、その象徴がNHK全国学校音楽コンクール(通称Nコン)だ。こちらにも、面白い動きがあった。

NHK全国学校音楽コンクール(Nコン)

2000年代後半からは、中学校の部を中心に「多くの中学生が自ら合唱に興味を持ち、歌いたいと思える曲を、という趣旨で、J-POPのアーティストによる課題曲の制作が続いている。2008年度のアンジェラ・アキ作詞作曲の「手紙」のように、オリジナル楽曲もヒットし、そのメッセージ性から卒業ソングとして人気を集める例も見られる。
J-POPの課題曲は、合唱音楽に精通した作曲家が合唱用に編曲するものの、この試みには指導者だけでなく児童・学生の間でも賛否両論あり、議論を呼んでいる。音楽のありようが多様化する今日、主催者が歌わせたい歌と子どもたちが歌いたい歌、その折り合いをどのようにつけていくのかが、コンクールの是非とともに問われている。

……是非は本当にともかく、合唱コンクールで歌われる曲のほとんどが、わたしのまったくあずかり知らない曲ばかりなのには毎年驚いています。本当に、是非はともかく。まあそういいながら、われらが鶴岡北高が日本一になったことは素直に喜んでおります。すげーな、おめでとう。以下次号

本日の一曲はユーリズミックスの「ミラクル・オブ・ラブ」愛の奇跡ですか!ヒデとロザンナですかっ。

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戦後の音楽文化PART2 全日本吹奏楽連盟

2016-10-18 | 音楽

Weather Report - Birdland

PART1はこちら

全日本吹奏楽連盟について「<戦後>の音楽文化」ではこう解説されている。

「全日本吹奏楽連盟」

日本の吹奏楽界の中心は、まぎれもなく学校ベースの吹奏楽文化である。戦前から学校の部活動における「吹奏楽部」は存在したが、大半は戦後の学習指導要領改訂の影響を受けて設置された「吹奏楽部」である。

日本で最大の吹奏楽組織である全日本吹奏楽連盟の歴史は、1939年に大日本吹奏楽連盟として結成されたことにさかのぼる。1973年には社団法人としての認可を受け、2013年に現在の一般社団法人全日本吹奏楽連盟となった。加盟団体数は14241団体(2014年12月現在)にのぼり、現在11の支部、さらに都道府県、各市までの下位組織によって構成されている。各連盟の運営は、多くの中学校や高等学校における吹奏楽部の顧問である教員や元教員によって支えられている。

……ですよね。本来、吹奏楽は音楽シーンの一部であるにもかかわらず、この連盟はほとんど教員&教員OBによって運営されている。くわえて、この団体が主催するコンクールは

全国大会への出場は熾烈な競争である。専門の演奏家による指導を取り入れている学校は珍しくない。しかし、現在のコンクールは、学校の課外活動の範疇を超えているとの指摘もある。そのような日本の吹奏楽について、ノルウェーの音楽研究者デイヴィッド・G・エベールは「特異的」である、と著書のなかで指摘している。全日本吹奏楽コンクールを抜きにして、世界から日本が吹奏楽大国と呼ばれる姿は描けない。しかし、功罪に鑑み、基本的な議論をすべきときかもしれない。

……別に朝日新聞(吹連とともに主催)の地方版が吹奏楽コンクール一色になってしまうことに文句があるわけではないが(少しはあります)、ちょっとこれは過剰ではないかと前から思っていた。以下次号

本日の一曲はウェザー・リポートの「バードランド」。キャッチーな旋律にジャコパスの禍々しいベースがからむ。彼はとっくに、そしてザビヌルも死んでしまった。おおおウェイン・ショーターは存命ですかっ!うれしいっす。

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戦後の音楽文化PART1 吹奏楽

2016-10-17 | 音楽

A Message Song - Pizzicato Five

学校に勤務していながら、というか逆に勤務しているからこそ見えないものがあるような気がする。

たとえば吹奏楽。ある程度の生徒数を保持する中学には、まずまちがいなく存在するのが吹奏楽部だ。通称ブラバンは、学校にとって、そして学校事務職員にとってきわめて自然なものとしてそこにある。

でも、これはしかしなかなか不思議な話ではないだろうか。音楽のひとつのジャンルにすぎない吹奏楽だけが、どうしてこんなに隆盛を誇っているのだろう。

そのあたりを知りたくて図書館から借りたのが「<戦後>の音楽文化」(戸ノ下達也編著 青弓社)だ。各事象についてとても冷静に解説してあるので、この本は当たりだった。

ここで、吹奏楽の現状はこう語られている。

「吹奏楽」
日本の吹奏楽は戦後、「アメリカにその範をとり、そして一気に抜き去った」音楽媒体だということである。戦後の復興時に一気に流入してきたアメリカ式の吹奏楽はあっという間に広まり、経済成長の勢いそのままに日本の吹奏楽は大きく発展した。そしていまや、演奏レベル、レパートリーの豊富さ、時代を切り開く先進性など、どれをとっても総合的にアメリカを圧倒的に上回っているどころか、世界のトップになったと言えるかもしれない。演奏レベルで、日本のアマチュア吹奏楽……特に中核となる中学生高校生たちのクォリティーの高さは、いまや世界中の吹奏楽関係者が認めるところである。

……すごいぞ日本の吹奏楽!と素直に喜べないのはなぜだろう。いや別に吹奏楽の出自が軍楽隊だからおかしいと主張したいわけではないし、器楽全体の進歩がその陰で犠牲になっているのではないかとつっぱって、じゃあ学校で弦楽器を用意できるのかと開き直られたら目も当てられない。

まず、なぜ日本の吹奏楽がこれほどまでに深化したのかを考えなければならないのではないか。もちろんそこでは、全日本吹奏楽連盟という存在を抜きには語れないだろう。以下次号

本日の一曲はピチカート・ファイブの「メッセージ・ソング」。「みんなのうた」でもおなじみ。ラブソングに聞こえるけれど、父親から息子へのメッセージなのね。ポップなアレンジの陰に“悠長な”ブラス。いいですなあ。野宮真貴と花田裕之を共演させようと考えたヤツは誰だ。最高じゃないか(笑)

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「唄めぐり」 石田千著 新潮社

2016-07-21 | 音楽

民謡 会津磐梯山(福島) 大塚文雄

うちの学校のPTA広報に載せたネタその2(その1はいずれ)。毎号、「おぼげだ」というタイトルで驚いたことを職員が披露するのである。

校地内全面禁煙なので、前任校でも正門前でタバコを吸っていました(どうもすみません)。すると通りすがりの住民の方々からさんざん説教されることに。

「まだきみは禁煙できないのかね!」

「はあ」

そんな会話をしているうちになぜか深い話になってしまい

「やはり、自分の子どもには本を読ませるべきだと思うよ」

「はあ」

「まあ、そのせいもあったか、うちの娘は物書きになったんだけどね」

「……物書き?」

「○○というんだ。まあ、知らないだろうけど」

でええええ、某芥川賞候補作家じゃないかっ!おぼげだ。

……この、○○の部分に入るのが、石田千。わたし、彼女の「あめりかむら」しか読んだことがなくて、おとうさんが近所に住んでいることも知りませんでした。おぼげだ(驚いた)。

「唄めぐり」は、芸術新潮の連載で、石田が日本各地を訪ねてその地の民謡にまつわるあれこれを取材したルポ。さすが、嵐山光三郎門下だけあってさりげないユーモア(とにかく酒を飲みまくり、神社では良縁がありますようにと祈っている)がたっぷり。その土地の人たちへのリスペクトも感じられて気持のいい本だ。ボリュームもたっぷり。

民謡が、それぞれオリジナルな曲として存在するのではなく、ある地方の唄が、商人や職人によって伝えられ、違う曲になっている例が多いことに驚く。

そして、レコードという存在が、そのままであれば常に形を変えるであろう民謡というものに、良かれ悪しかれ一種の完成形を与えた事実には考え込まされた。

「小原庄助さん♪」という会津磐梯山の一節が、レコード化の際に勝手につけ加えられ、地元が反発したなどと聞くと、民謡についてわたしは何にも知らなかったんだなとつくづく。いやーおぼげだ。

ということで本日の一曲はまたしても大塚文雄さんの「会津磐梯山」。これには本当に慄然としてしまいました………え、この人は山形県の出身だったの?マジ知りませんでした。あー怒らないでー。バックコーラスはシュープリームスもびっくりのファンキーさです!



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ポップ・ライフ~追悼プリンス

2016-04-22 | 音楽

「××せんせいノ好キナあーてぃすとハ誰デスカ?」

その昔、ALTと飲んでいるときに質問された。

「プリンス、かな」

「ホォ」

「で、二番目はプリンス&ザ・レボリューションズ(笑)。三番目はプリンス&ザ・ニュー・パワー・ジェネレーションで四番目はジ・アーティスト・フォーマリー・ノウン・アズ・プリンスだ!」

みんな、プリンスの名義である。それくらい好きだった。もちろん毛嫌いする人が多いのもわかる。いかがわしさ全開のルックスだし、声もどちらかといえばノイジーに聴かせようとしているかのよう。メロディよりも、リズムパターンで曲を前へ前へと進めようとしていたので、日本人には向かないのかもしれない。

ただ、単純なフレーズを華麗なアレンジで何度も何度も聴かされているうちに、わたしはすっかりはまってしまいました。最高傑作は「サイン・オブ・ザ・タイムス」だと思う。特に二枚目の高揚はすごかった。前衛的に見えて、しかしポップのエリアにちゃんといる。むしろ自分でポップの領域を広げているようだった。

だいたい、彼の音楽は誰にも似ていない。プリンス、というジャンルが孤高にある感じ。あ、でも忌野清志郎渋谷陽一の番組で近ごろ気になるアーティストはいるかと訊かれて

「いまどきの音楽は聴いてないからなあ……。あ、あいつはいいな。ジミヘンみたいなやつ」

とプリンスを激賞していたっけ。確かに、ジミ・ヘンドリックスに有り様が少し似ているかもしれない。

たくさんのアーティストとコラボもしたわけだけど(シーナ・イーストンともデュエットしている!)、印象としてはウェンディ&リサやシーラ・Eをひきつれて調子こいてる姿が似合っていた。

ライブ映像の迫力は圧倒的で、あの小さな身体でどんだけはじけるんだとあきれてました。セックスもすごそう。だから、インフルエンザなんかで死ぬはずはないし、クスリのイメージも似合わないので(ですよね?)、オーバードーズも考えにくい。だいたい、そこまでジミヘンに似なくてもいいじゃないか。

同世代の天才がまた消えた。妻よ、喪服の準備はいいか。通夜はいつなんだ。香典はいくら包めばいいんだ。あ、あいつの宗派ってなんだっけ!?くそ、くやしい。

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大瀧詠一 Writing & Talking PART5 熱き心に

2016-04-14 | 音楽

「熱き心に」 大滝詠一

PART4「A面で恋をして」はこちら

はっぴいえんどの盟友である細野晴臣との対談は趣き深い。

細野:歌謡曲の仕事は、頼まれたらやるという感じでやってきてる。それが結果的にはおもしろいことになる。例えば、ヒットチャートで作者欄に松本、大瀧、細野が並んだりとかね。松本がけっこう意識してね。

大瀧:あいつがフィクサーだ!?

……細野晴臣はイモ欽トリオの「ハイスクール・ララバイ」大瀧詠一は松田聖子の「風立ちぬ」が大ヒット。作詞はどちらも松本隆。

「ナイアガラ・トライアングルVol.2」にはもっとこぼれ話が。鈴木雅之との対談で

鈴木雅之:ちょうど大瀧さんが「ナイアガラ・トライアングルVol.2」を録音してるとき、隣のスタジオでレコーディングしてたのが俺たち(シャネルズ)。で、呼ばれて佐野元春の「彼女はデリケート」っていう曲のコーラスやってみろって言われて、やったわけ。

大瀧詠一:まあ、同じエピックだからいいだろう、ってことで。だから、その「彼女はデリケート」には彼らのコーラスが入って(佐野のアルバムの)A面の1曲目ですよ。クレジットには出してないけど。

……「彼女はデリケート」は、佐野元春が沢田研二に提供した曲のセルフカバー。まさかシャネルズがノンクレジットで参加していたとは。ソロのバージョンもすばらしいっすよ。確か佐野とマーチンは、バブルガム・ブラザーズのコーンを真ん中に、意外に関係が深いのでした。運命。佐野はプロデュースというものを大瀧と伊藤銀次に学んだと公言しているので、これも縁というものなのだろう。
 
「熱き心に」
大森昭男:小林(旭)さんの娘さんが、大瀧さんのファンだったんですってね。あの大瀧さんがうちのお父さんに曲を書いてくれるはずがないって言われたらしくて。カセットを証拠に持って帰ると言われてましたよね。

大瀧:僕は以前、僕の仮歌を家で流していた時に、娘さんが2階から「これ、大瀧詠一でしょ!」って降りてきたっていう話を聞いたことがありますよ。それで「おう、お前知っているのか」って言ったっていう。

……うわー、めちゃめちゃいい話だなあ!

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