陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

西郷像の話

2009-10-18 23:04:52 | weblog
その昔、上野公園で友だちと待ち合わせたことがある。例の西郷さんの像のところで待ち合わせたのだが、例によって時間より少し早く着いたわたしは、二十分ほど遅れてきた相手を待ちながら、三十分ほど西郷さんの像をしげしげと眺めていたのだった。
ちょうど今の季節で、秋の日差しが紅葉し始めた木々の葉を照らす、気持ちの良い日曜日で、ちょうど西郷さんのように、犬を連れて散歩している人も多かった。小さなポメラニアンが自分の体の十倍はありそうなゴールデンレトリバーに吠えかかり、レトリバーの方がしっぽを丸めて飼い主の後ろに隠れたのを、いまでも覚えている。相変わらずわたしの記憶の引き出しは、そういうジャンクであふれかえっている。

ところで西郷さんの像はどうして上野に立っているのか、わたしは長いこと不思議だったのだけれど、山田風太郎が『死言状』(角川文庫)のなかでそのことを書いている。
 果然、そもそも西郷の銅像を建てるなどということを思いついたのは、東京人ではなく、薩摩人であった。
 その発起人は樺山資紀(かばやますけのり)、吉井友実(よしいともざね)という人であった。(中略)
 これが音頭をとって募金して銅像を作らせ、西郷の名誉回復のため、はじめは皇居のそばに置こうとしたが、さすがにいちどは逆賊の名を受けた人物の銅像を皇居のそばに飾るのはいかがなものかという異議が出て、やむなく移した先が上野公園だったというわけだ。いわば間に合わせの場所なのである。
(山田風太郎『死言状』角川文庫)

さて、西郷さんというと、たいていの人はあの銅像の顔を思い浮かべるだろう、というか、それ以外の西郷さんの顔をわたしたちはよく知らない。坊主刈りで、眉の濃い、ぎょろ目で彫りの深い顔立ちの顔が、箱のような胴体の上に載っている。
ところが西郷さんはあんな顔ではなかったらしい。さらに『死言状』から。
 この銅像ができてみると、こんどは西郷の遺族から異議が出た。隆盛はあんなぞろっぺいな姿で狩りをしたことはないし、顔もまた似ていないというのである。
 服装はともかく、容貌については、この銅像の作り手は、おそらくキヨソネのえがいた西郷の銅版画の肖像によったせいだろう。
 正しくは、エドアルド・キオソーネ、紙幣などを作るために日本に招聘されたイタリアの画家で、彼は奇しくもこの年(※西郷の銅像が上野に建てられた明治三十一年)の四月に東京で死んでいる。
 西郷は生涯写真をとらさなかった。この点、明治天皇と同じである。
 いったい明治の政治家や軍人は、後代よりもりっぱな顔をしている。それは主としてヒゲによると私は考えている。
 で、いまもわれわれの知る両人の顔は、キヨソネのイタリア的美術感覚で修正された肖像なのである。またイヌをひいた粗衣の西郷は、銅像の作者高村光雲の庶民的感覚で空想された姿なのである。

わたしがわざわざこの話をしたのは、イタリア人であるキオソーネが描いた顔が西洋人風になり、木彫りの仏師が彫った彫刻が裾の短い浴衣姿である、という風太郎の指摘がおもしろかったからなのだ。
fujita

この話で思い出すのは藤田嗣治である。
藤田というと、乳白色の独特の質感の肌で、特にフランス人を描き、大変な評判になった。だが、上の絵でもわかるように、線の細い華奢な顔立ちは、フランス人が描くフランス人の顔とものすごく印象がちがう。どこか日本人の顔立ちを思わせるところがある。

イタリア人画家の描いた明治天皇の肖像画にしても、西郷隆盛の肖像画にしても、ともに独特の彫りの深さが感じられる。何しろキオソーネが描いた肖像以外に、判断材料がないので、明治天皇や西郷隆盛がほんとうに彫りの深い顔をしていたのかどうなのかはわからないのだけれど、「イタリア的美術感覚で修正」というのには説得されてしまう。

画家といっても、生まれてからずっと見てきた経験の蓄積をもとに、人を見、それを描くのだとしたら、日本人の描くフランス人が、どこか日本風でフランス人の目から見て独特のエキゾチズムがあることにしても、イタリア人の描く日本人が、どこかイタリア風の彫りの深さを持っていることにしても、不思議はあるまい。

それでもなんだかあの西郷さんの顔が、イタリア風なタッチが加えられていると考えると、なんだか楽しくなってしまう。西郷さんはどんな顔をしていたのだろう。