陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

冷蔵庫に何入れる?

2009-10-17 23:08:13 | weblog
大学に入って寮生活を初めると、最初に先輩から寮にある共同の冷蔵庫のひとつぶんの棚を割り当てられた。買ってきた自分の食べ物はそこに置くのだ。そのほかに、牛乳や卵や冷凍食品などは共有のドアポケットや冷凍庫に、自分の名前を書いて入れておく。ふたつある卵ケースには、さまざまな名前を書いた卵がいつも並んでいた。

自炊といっても、朝はパンとせいぜい卵を食べるぐらいだし、ちゃんと料理を作るのは、一日に一度だけだ。それでもキャベツやダイコンは、たとえ1/4に切ったものを買ってきたとしても、数日間は場所を取ったし、味噌も場所を取った。棚一段分は確かに不便だったが、何人かの先輩がそうしているように、自分の部屋に小型の冷蔵庫を置こうとまでは思わなかった。というのも、その日に食べる分だけ、鮭の切り身ひと切れとか、トマト一個、豚肉の小さなパック(これはたいてい二日に分けて使った)とかを、毎日帰りがけに買っていたからだ。だから、冷蔵庫のひとつの段しか割り当てがなくても、それほど困ることはなかったのだ。

それからずいぶん時が過ぎて、わたしの使っている冷蔵庫も二代目となり(考えてみたらわたしが冷蔵庫を持つようになって、いまのがたった二台目だ。何によらず物持ちがいいなあ)、そのたびに容量も大きくなった。それでも家電量販店にあるような大型の冷蔵庫には遠く及ばない。どう考えてもそんなに入れるものがあるようには思えないからだ。

考えてみればあんな大きな冷蔵庫に、食べ物をぎっしり詰め込めば、四人家族でも一週間はもつだろう。週末に一週間分を大量に買い込んで、冷蔵庫にストックする、というライフスタイルが、今は主流なのだろうか。

うちの冷凍庫を占領しているのはアイスノンやコーヒー豆だし、冷蔵庫の中で場所を占めているのは、麦茶や牛乳やジュースを除けば、粉類や乾物、あとはヨーグルトぐらいしかない。野菜室は満杯だが、かさばっているのは米袋を入れているせいで、あとはキャベツとグレープフルーツが入っているぐらい。過去に何度かやってしまった経験から、とにかく冷蔵庫のなかで物を腐らせるのが恐ろしいのだ。色が変わって黄緑色の汁を垂らしているレタスとか、カビのはえた瓶詰めとか。その経験から十五年以上が過ぎているのに、まだあのときの恐怖から立ち直れない。そんな食べ物から非食べ物に変質した物体のことを思い出すと、今日、せいぜい明日、確実に食べるとわかっている以上のものを、どうしても買うことができないのだ。

その昔、アメリカの巨大なスーパーで、巨大なカートを押しながら買い物をしている人を見て、アメリカ人はだからあんなに大きな冷蔵庫が必要なのだなあ、と思ったものだった。それらの食品をたっぷり消費したにちがいない、ふくよか、という表現は穏やかに過ぎるような体型の人を見ながら、ライフスタイルがあの冷蔵庫を必要としたのか、巨大な冷蔵庫があのライフスタイルとあの体型を創りだしたのか、どちらが原因でどちらが結果かと考えたものだった(んじゃなかっただろうか)。

いまの日本の大型冷蔵庫は、そこまで大きくないにせよ、十分対抗できるような気がする。だが、毎日出会う買い物をしている人を見ていると、そこまで大量に買い込んでいるわけではないようだ。

それとも週末に郊外のショッピングセンターに車で出かけるような人は、かつて見たアメリカ人のように大量の買い物をしているのだろうか。なんにせよそんな人は、冷蔵庫で物を腐らせたり、カビを生やしたりすることがないよう、入念な計画を立てて、毎日料理をしているのだろう。きっと頭の中がシステマティックになっている人にちがいない。

近ごろ、スーパーに行くたびに、インフルエンザや台風に備えて、食料品の買い置きをしておきましょう、というポスターが目に入る。ほとんど毎日買い物に行っているわたしは、毎日それを見ているのだが、買い置きの食品を買おうという気にもなってない。ほかの人は、果たしてどれくらい買い置きをしているのだろうか。

その点、大型冷蔵庫に大量に食品をストックしている人は、インフルエンザが蔓延し、なおかつ台風が来ても、何の痛痒もないにちがいない。備えあれば憂いなしを実践しているわけだ。

まあ、インフルエンザが蔓延したら、切り干しダイコンと春雨スープで、持ちこたえられるところまで、何とか持ちこたえることにしよう。