陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

西郷像の話

2009-10-18 23:04:52 | weblog
その昔、上野公園で友だちと待ち合わせたことがある。例の西郷さんの像のところで待ち合わせたのだが、例によって時間より少し早く着いたわたしは、二十分ほど遅れてきた相手を待ちながら、三十分ほど西郷さんの像をしげしげと眺めていたのだった。
ちょうど今の季節で、秋の日差しが紅葉し始めた木々の葉を照らす、気持ちの良い日曜日で、ちょうど西郷さんのように、犬を連れて散歩している人も多かった。小さなポメラニアンが自分の体の十倍はありそうなゴールデンレトリバーに吠えかかり、レトリバーの方がしっぽを丸めて飼い主の後ろに隠れたのを、いまでも覚えている。相変わらずわたしの記憶の引き出しは、そういうジャンクであふれかえっている。

ところで西郷さんの像はどうして上野に立っているのか、わたしは長いこと不思議だったのだけれど、山田風太郎が『死言状』(角川文庫)のなかでそのことを書いている。
 果然、そもそも西郷の銅像を建てるなどということを思いついたのは、東京人ではなく、薩摩人であった。
 その発起人は樺山資紀(かばやますけのり)、吉井友実(よしいともざね)という人であった。(中略)
 これが音頭をとって募金して銅像を作らせ、西郷の名誉回復のため、はじめは皇居のそばに置こうとしたが、さすがにいちどは逆賊の名を受けた人物の銅像を皇居のそばに飾るのはいかがなものかという異議が出て、やむなく移した先が上野公園だったというわけだ。いわば間に合わせの場所なのである。
(山田風太郎『死言状』角川文庫)

さて、西郷さんというと、たいていの人はあの銅像の顔を思い浮かべるだろう、というか、それ以外の西郷さんの顔をわたしたちはよく知らない。坊主刈りで、眉の濃い、ぎょろ目で彫りの深い顔立ちの顔が、箱のような胴体の上に載っている。
ところが西郷さんはあんな顔ではなかったらしい。さらに『死言状』から。
 この銅像ができてみると、こんどは西郷の遺族から異議が出た。隆盛はあんなぞろっぺいな姿で狩りをしたことはないし、顔もまた似ていないというのである。
 服装はともかく、容貌については、この銅像の作り手は、おそらくキヨソネのえがいた西郷の銅版画の肖像によったせいだろう。
 正しくは、エドアルド・キオソーネ、紙幣などを作るために日本に招聘されたイタリアの画家で、彼は奇しくもこの年(※西郷の銅像が上野に建てられた明治三十一年)の四月に東京で死んでいる。
 西郷は生涯写真をとらさなかった。この点、明治天皇と同じである。
 いったい明治の政治家や軍人は、後代よりもりっぱな顔をしている。それは主としてヒゲによると私は考えている。
 で、いまもわれわれの知る両人の顔は、キヨソネのイタリア的美術感覚で修正された肖像なのである。またイヌをひいた粗衣の西郷は、銅像の作者高村光雲の庶民的感覚で空想された姿なのである。

わたしがわざわざこの話をしたのは、イタリア人であるキオソーネが描いた顔が西洋人風になり、木彫りの仏師が彫った彫刻が裾の短い浴衣姿である、という風太郎の指摘がおもしろかったからなのだ。
fujita

この話で思い出すのは藤田嗣治である。
藤田というと、乳白色の独特の質感の肌で、特にフランス人を描き、大変な評判になった。だが、上の絵でもわかるように、線の細い華奢な顔立ちは、フランス人が描くフランス人の顔とものすごく印象がちがう。どこか日本人の顔立ちを思わせるところがある。

イタリア人画家の描いた明治天皇の肖像画にしても、西郷隆盛の肖像画にしても、ともに独特の彫りの深さが感じられる。何しろキオソーネが描いた肖像以外に、判断材料がないので、明治天皇や西郷隆盛がほんとうに彫りの深い顔をしていたのかどうなのかはわからないのだけれど、「イタリア的美術感覚で修正」というのには説得されてしまう。

画家といっても、生まれてからずっと見てきた経験の蓄積をもとに、人を見、それを描くのだとしたら、日本人の描くフランス人が、どこか日本風でフランス人の目から見て独特のエキゾチズムがあることにしても、イタリア人の描く日本人が、どこかイタリア風の彫りの深さを持っていることにしても、不思議はあるまい。

それでもなんだかあの西郷さんの顔が、イタリア風なタッチが加えられていると考えると、なんだか楽しくなってしまう。西郷さんはどんな顔をしていたのだろう。

冷蔵庫に何入れる?

2009-10-17 23:08:13 | weblog
大学に入って寮生活を初めると、最初に先輩から寮にある共同の冷蔵庫のひとつぶんの棚を割り当てられた。買ってきた自分の食べ物はそこに置くのだ。そのほかに、牛乳や卵や冷凍食品などは共有のドアポケットや冷凍庫に、自分の名前を書いて入れておく。ふたつある卵ケースには、さまざまな名前を書いた卵がいつも並んでいた。

自炊といっても、朝はパンとせいぜい卵を食べるぐらいだし、ちゃんと料理を作るのは、一日に一度だけだ。それでもキャベツやダイコンは、たとえ1/4に切ったものを買ってきたとしても、数日間は場所を取ったし、味噌も場所を取った。棚一段分は確かに不便だったが、何人かの先輩がそうしているように、自分の部屋に小型の冷蔵庫を置こうとまでは思わなかった。というのも、その日に食べる分だけ、鮭の切り身ひと切れとか、トマト一個、豚肉の小さなパック(これはたいてい二日に分けて使った)とかを、毎日帰りがけに買っていたからだ。だから、冷蔵庫のひとつの段しか割り当てがなくても、それほど困ることはなかったのだ。

それからずいぶん時が過ぎて、わたしの使っている冷蔵庫も二代目となり(考えてみたらわたしが冷蔵庫を持つようになって、いまのがたった二台目だ。何によらず物持ちがいいなあ)、そのたびに容量も大きくなった。それでも家電量販店にあるような大型の冷蔵庫には遠く及ばない。どう考えてもそんなに入れるものがあるようには思えないからだ。

考えてみればあんな大きな冷蔵庫に、食べ物をぎっしり詰め込めば、四人家族でも一週間はもつだろう。週末に一週間分を大量に買い込んで、冷蔵庫にストックする、というライフスタイルが、今は主流なのだろうか。

うちの冷凍庫を占領しているのはアイスノンやコーヒー豆だし、冷蔵庫の中で場所を占めているのは、麦茶や牛乳やジュースを除けば、粉類や乾物、あとはヨーグルトぐらいしかない。野菜室は満杯だが、かさばっているのは米袋を入れているせいで、あとはキャベツとグレープフルーツが入っているぐらい。過去に何度かやってしまった経験から、とにかく冷蔵庫のなかで物を腐らせるのが恐ろしいのだ。色が変わって黄緑色の汁を垂らしているレタスとか、カビのはえた瓶詰めとか。その経験から十五年以上が過ぎているのに、まだあのときの恐怖から立ち直れない。そんな食べ物から非食べ物に変質した物体のことを思い出すと、今日、せいぜい明日、確実に食べるとわかっている以上のものを、どうしても買うことができないのだ。

その昔、アメリカの巨大なスーパーで、巨大なカートを押しながら買い物をしている人を見て、アメリカ人はだからあんなに大きな冷蔵庫が必要なのだなあ、と思ったものだった。それらの食品をたっぷり消費したにちがいない、ふくよか、という表現は穏やかに過ぎるような体型の人を見ながら、ライフスタイルがあの冷蔵庫を必要としたのか、巨大な冷蔵庫があのライフスタイルとあの体型を創りだしたのか、どちらが原因でどちらが結果かと考えたものだった(んじゃなかっただろうか)。

いまの日本の大型冷蔵庫は、そこまで大きくないにせよ、十分対抗できるような気がする。だが、毎日出会う買い物をしている人を見ていると、そこまで大量に買い込んでいるわけではないようだ。

それとも週末に郊外のショッピングセンターに車で出かけるような人は、かつて見たアメリカ人のように大量の買い物をしているのだろうか。なんにせよそんな人は、冷蔵庫で物を腐らせたり、カビを生やしたりすることがないよう、入念な計画を立てて、毎日料理をしているのだろう。きっと頭の中がシステマティックになっている人にちがいない。

近ごろ、スーパーに行くたびに、インフルエンザや台風に備えて、食料品の買い置きをしておきましょう、というポスターが目に入る。ほとんど毎日買い物に行っているわたしは、毎日それを見ているのだが、買い置きの食品を買おうという気にもなってない。ほかの人は、果たしてどれくらい買い置きをしているのだろうか。

その点、大型冷蔵庫に大量に食品をストックしている人は、インフルエンザが蔓延し、なおかつ台風が来ても、何の痛痒もないにちがいない。備えあれば憂いなしを実践しているわけだ。

まあ、インフルエンザが蔓延したら、切り干しダイコンと春雨スープで、持ちこたえられるところまで、何とか持ちこたえることにしよう。

今日も告知だけです

2009-10-16 23:45:04 | weblog
告知のみで心苦しいのですが、"what's new" をアップしました。

テレビなどほとんど見ないわたしが、なんでこんな話題を取り上げたか、みたいなことを書いてます。

考えてみたら、ほかの人がどんな感じでテレビを見てるのか、なかなかわかりませんよね。映画を観る人は真剣にスクリーンに目をやるし、音楽を聴くのにしても、ある程度聴き方が限られている。けれど、テレビを見るのはそういうのよりもっと幅があるような気がします。

わたしはどうもテレビがついてると、本も読めない、料理しててもイライラしちゃう、せいぜいボタンつけかアイロンかけぐらいしかできそうにないんですが(笑)、テレビの前で宿題してきた、なんて子もいたなあ……。

またお暇なときにのぞいてみてください。ダールも近日公開です。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

サイト更新しました

2009-10-15 22:46:37 | weblog
数日体調を崩していたんですが(新型インフルエンザではないんですがね)、ぼちぼち書きためていた「半世紀前のやらせが教えてくれること ~TVとわたしたち」をやっとアップすることができました。

今年の初めにロバート・シェクリィを訳したときに参考文献として読んだ、アメリカのテレビ番組の黎明期を描いた本をもとに、クイズ・ショウスキャンダルズの話を書いたブログがもとになっています。

かなり大幅に加筆していったので、わりとおもしろくなったんじゃないかと思うんですが、そうでもないかな。

ともかくお暇なときにでものぞいてみてください。
ダールも近いうちにアップします。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

ということで、それじゃ、また。

顔の話

2009-10-12 22:51:17 | weblog
死んでしまった人はいい人、という言い方があるが、確かにマイケル・ジャクソンに関しては、その言葉も当てはまるような気がする。

ここ数年は、マイケル・ジャクソンといえば、整形に整形を重ねたあげく、顔面が崩壊した、とか、鼻が落ちた、などといったグロテスクなうわさ話ばかりが伝えられていた。それがほんとうかどうかとは無関係、「いかにもありそうな話」であれば、十分笑い話として通用する。そんな扱われ方をしていたように思う。

昔から、芸能人の誰それは整形をしている、という話はよく聞いた。誰それと同じ高校だったが、当時はいまのように目が二重ではなく、鼻も低かった、という話も聞いたことがある。

だが、そんな話を聞くと、オーディションに受かったとき、もしくは街でスカウトされたには「整形前」の顔だったのだから、どうしてそんなにパッとしない女の子が芸能人になれたのだろう、その状態からいまの顔を想像して合格させたり声をかけたりしたのだとしたら、見いだした人の眼力というのはは、占い師並みということになるなあ、と思ったものだが、美容整形というのは、ほんとうにそこまで顔かたちを変えることができるのだろうか。

佐々木正人の『からだ ―認識の原点』には、こんな例があげてある。「戒厳令下チリ潜入」という映画を撮るために、亡命中だった映画監督のミゲル・リティンは、変装して母国チリに潜入することにした。メガネをかけ、ヒゲを剃り、ウルグアイ人から身振り、話し方などを学んだ。

だが、変装の手助けをした心理学者は「笑ったら死ぬぞ」と警告したという。つまり、どれだけ変装したとしても、表情はすべてをぶちこわす、ということなのである。人間はそれくらい、人の表情を見分けることができるのだ。

このエピソードが教えてくれるのは、わたしたちは「顔」を見ているわけではなく、表情を見ている、ということだ。笑顔、といえば一種類しかないような気がするが、人の笑顔はそれぞれにちがう。百人いれば百通りの笑顔、その人独特の笑顔があって、わたしたちが見分けているのは、顔の造作ではなくその人ならではの笑顔なのである。

そう考えていくと、目を大きくするとか、鼻の形を変えたりするとかが、どれほどその人の表情に影響を及ぼすのだろうか。

近所の子供たちが小学生から中学生、高校生へと成長していくのを見ていると、それぞれの顔の変化が、その子供たちがどう生きているかと密接に関連していることがよくわかる。中学時代、暗い顔をしていた子が、高校入学とともに、なんだか憑き物が落ちたように、明るくのびやかな顔になっているのを見ることもあるし、小学生時代、あどけなくかわいらしかった子が、髪を染め、眉を抜き、化粧をして次第に無惨な顔になっていくのを見ることもある。

ある人物の顔と、その人が生きている「物語」は、端で見ていてもはっきりとわかるほどの関連がある。そこに整形を施すことによって、急激な変化を顔に与えることは、おそらくその「物語」にゆがみを生じさせることになるのではあるまいか。

マイケル・ジャクソンは、自分の望む顔を手に入れようと、整形を繰りかえした。アルバムのジャケットを見るだけでも、彼の顔が別人のように変わっていっていることがわかる。だが、変わっていっているのは、造作だけなのか。人種や性別からの逸脱は、人間らしい表情からの逸脱でもある。望む顔になれば、望む人生が手に入れられると思ったマイケル・ジャクソンは、逆に、どこまでいっても望む顔になれない、という逆説のなかにはまりこんでいってしまった。そうして、いつのまにか彼の顔は、グロテスクなうわさ話とともに語られるようになってしまったのだ。

マイケル・ジャクソンの最後のコンサート映像を編集した映画がまもなく公開されるらしい。だが、もはや誰も彼の顔について、意地の悪いことを言うことはない。もはや整形に整形を重ねた顔が崩れることもなければ、そこからさらに整形を施すこともないのだから。

良い人になったかどうかはさておいて、少なくとも彼の名前は、やっとその音楽やダンスとともに語られるようになったわけだ。

だが、マイケル・ジャクソンを思い出そうとしても、いったいどのマイケルを思い浮かべたら良いのか、わたしはとまどってしまう。何度も見たのは「スリラー」のMTVだが、いま見てみると、なんだかそれもマイケルとはちがうような気がする。

彼としてみれば、いったいどの自分を思いだしてほしいのだろうか。
まあ、そんなことなどどうでもよくなったところに行ってしまったのだろうが。


※ちょっと出かけてました。
明日くらいにはサイトにアップできると思いますので、またよろしく。

恩の秤

2009-10-09 23:18:26 | weblog
あまり親しくない関係、というか、有り体に言ってしまえば、こちらとしては、どちらかといえば関わり合いを避けたいぐらいに感じている相手から、何かしら恩を受けるのは、気の重いものである。

菊池寛の「恩を返す話」の主人公も、自分の命が助かったことより、目の上のたんこぶのような相手から恩を受けたことを悔やんでいる。命が助かったからこそ、悔やむこともできるのだ、とわかっていても、こんなことならいっそ死んだ方が良かった、という主人公のほぞをかむような気持も十分に理解できる。

恩を受けたくない相手から、心ならずも恩を受けてしまった。となると、さて、どうしたら良いのだろう。即座にそれに相応する「恩」を、こちらも返すことだ。事実「恩を返す話」でも、神山甚兵衛は自分の命を救ってくれた佐原惣八郎に対して、何とかして恩を返そうと機会をうかがうのである。

仮に相手が「目の上のたんこぶ」ではないにしても、親しい相手であっても、わたしたちが「恩」を受けたときはなんとなく居心地が悪い。あたかもわたしたちの心のなかに、秤のようなものがあって、世話をされたり便宜を図ってもらったりなどの「恩」を受けたら傾いてしまうかのように。だからすぐにお返しをして、秤を平行に戻しておかなければならない……。

お金は借りたらすぐに返すし、本でも物でも借りたなら、用事がすめばすぐに返す。それだけでなく、ちょっとしたお礼の品も添えることもある。たちまち借りを返せないときは、とりあえずお礼だけでも言っておく。「お礼の言葉」も一種の「恩返し」の先払いのようなものだろうか。

ただ、わたしにはひとつだけ、長いこと不思議に思うことがあった。

確かに、デートのときの食事代やお茶代はどちらが払うかというのは、さまざまな要素の絡み合うデリケートな問題であるように思う。だが、そういうデリケートな配慮が必要な関係ではない、恋人とも呼べない、特に好きなわけですらないような相手と出かけるときに、「すべて相手持ちはあたりまえ」と言ってはばからない女の子たちのことだった。

相手の男の子が、食事をおごり、映画やコンサートのチケットをおごり、送り迎えをする、というのはわかる。言葉は悪いが「恩」を売って、秤に傾斜をつけたいわけだ。お返しは、つぎの「恩」の呼び水となる。テニスのラリーが続くように、相手が打ち返しやすいところへ正確なサーヴを打つようなものだ。

だが女の子の方は、それを「恩」とはまったく考えていないようだった。
友だちであれば、受けた恩や世話に対して、きちんきちんと返していくような子、微妙なバランスまで考えるような子が、自分を誘う男の子に対しては、まったく「恩」とも感じない。男と女の関係というのは複雑なものだなあ、と、当時のわたしは思っていたのだった。

ところが先日、過去にそんなことをやっていたという人と話す機会があった。あのころはわたしも若かった、と笑いながら当時の話を聞かせてくれたので、わたしも気楽にかねてからの疑問をぶつけてみたのである。

すると、「恩の秤」はきちんと釣り合っている、とその人は言った。「恩」は何もお茶代や食事代だけではない。相手に好意も持っていない自分が、一緒に出歩いてあげることが「恩」で、相手はそれを返すために食事代を払ったり、お茶代を負担したりするのだ、というのである。

「いま考えると、ほんと、世間知らずだったと思う。一体何様、って感じよね」

それを聞きながら、なるほど、とわかって、おもしろく感じた。
やはりそこにも「恩の秤」は働いていたのだ。

わたしたちは恩や世話や物のやりとりをしながら、そのやりとりによって関係を確認しているのだ。そのたびごとに動いていく「恩の秤」の傾きで、上下関係を測りながら、微妙なバランスのなかで人間関係を形成している。その関係がどんなものかは、動くからこそ、確認できるのだろう。だからわたしたちは、関係のある相手に対して、何らかの働きかけをし続けるのだ。


消しゴムの思い出

2009-10-08 22:51:13 | weblog
一体何が原因だったのか、いまとなってはよくわからないのだが、中学生の頃、真剣に「どうしたら強くなれるだろう」と考えていた時期がある。

周囲の情況を見るにつけ、わかってきたのは「何かをほしがっている人は弱い」ということだった。
頭が良いと思われたい、かわいいと思われたい、人気者になりたい、そんなことを考えていると、そう思ってほしい人間に対してどうしても弱くなる。言いたいことも言えず、相手の顔色をうかがうようになる。

事実、生徒の歓心を買おうとしている先生は、生徒たちになめられていたし、男の子の前に出ると態度ががらっと変わる女の子は、他の女の子たちからバカにされていた。難しい本を机に置いていて、授業中もそこから小難しいことを引っ張ってくる子の成績が、実はたいしたことがないのも、みんな知っていたし、H.R.でいつも立派なことを言う子は、ちょっと批判でもされようものなら、必死で言い訳し、いつまでもくよくよしていた。

つまりは、欲しがり屋というのは、弱い人間なのだ。何も欲しがりさえしなければ、立場を弱くすることもない。好かれようと思わなければ、自分のことを嫌う人間の存在を気に病むこともないし、頭が良いと思われたいと願わなければ、少々悪い点を取ったところで、親から叱られるぐらいですむ。中学生のころのわたしはそんなふうに考えていた。

当時のわたしは気がついてはいなかったのだけれど、ほかならぬ自分のなかに、好かれたり認められたりすることを願う部分があり、なおかつ、それが満たされないときの屈辱を知っていたからこそ、「欲しがり屋」の弱さが目についたのだろうし、嫌悪すべきものと映ったのだろうと思う。ともかく、わたしはそうした評価や承認から身を引くことで、自分自身のプライドを守ろうとしていたわけだ。

それからしばらくたって、二十代に入ってしばらくした頃だろうか。ナンシー関という書き手を知るようになった。正確にはナンシー関はアクションジャーナルで消しゴム版画のイラストを載せていたころから知っていたのだけれど、コラムを読むようになったのは、それからかなりあとだったのだ。

コラムで取り上げられているテレビ番組も出演者も、それほど知っていたわけではなかったのだが(たぶんわたしが「キムタク」を知ったのは、ナンシー関のコラムを通じてだ)、多くの人が気がついていながら、言葉にうまく載せられないでいたような「感じ」を、視点を少しずらすことで的確にとらえ、短い言葉ですぱりすぱりと断定していく小気味よさにひかれた。

誰だかよく知らない人であっても、的確な描写とカリカチュアライズで、その人が何をして、どんな人であるか手に取るようにわかって、おもしろがりながらコラム集をたて続けに読んだ。ところがそのうちに、読むのがしんどくなってきた。ゴシップに飽きてきた、というのともちがう。何かが自分の内側に溜まっていくのだ。いいものではない。閉めきった部屋にいるうち、自分の吐く二酸化炭素で空気が悪くなっていくような感じ、とでもいったらいいのか、ともかくそんな不快感である。

ナンシー関という人は、怖いものがないらしかった。良い人と思われたい、好かれたい、カッコイイと思われたい、そんな「欲しがり屋」とは無縁のところに身を置いて、自分の批評眼だけを唯一の物差しに、似顔絵を版画と文章で描いていく。賞賛や評価を求めないでいられるためには、つねに自分が心の底から満足できる仕事をしている必要があるだろうし、同時に、自分に対して厳しくあることが求められるはずだ。だが、なんというか、それだけでもないような気がした。

中学生のころのわたしが気がつかなかったもうひとつのことは、何かを好きな人、大切なものがある人というのは、弱さを抱えるということでもある、ということだ。

虫が好きな人、サッカーが好きな人、本が好きな人、鉄道模型が好きな人、なんでもいいのだけれど、何かが正真正銘心から好きな人というのは、同時にそのことに関してはバカでもある。好きなものを悪く言われると、やっきになって反発する。子供っぽくもなるし、ばかげたことも言う。それが「好き」ということなのだ。

好きな人、大切な人がいる、ということは、その人物がどれだけ強くても、弱点を抱えている、ということでもある。だから、映画でもヒーローの彼女はさらわれる。

好きなものある人、好きな人がいる人は、何もかもを舌鋒鋭く批判したり、おもしろおかしくカリカチュアライズしたりすることはできない。好きなものや好きな人に対しては、どうしたってバイアスがかかるし、手ぬるいこと、さらにはアホなことを言ってしまう。自分にそういう弱点があることを知っている人なら、それ以外のものに対しても、やはり舌鋒は鈍ってしまうはずなのだ。

こう考えていくと、いつも強くあること、いつも正しい批判ができること、というのは、そんなに立派なことなのだろうか、という気がしてくる。ナンシー関のコラムを読んでいて、次第に感じてきた息苦しさというのも、そんなところから来るものではなかったか、という気がする。

ただ、いまでも覚えているのだけれど、彼女が中学生向けの雑誌に書いた短いエッセイはとてもいいものだった。冒頭の消しゴム版画は自分の姿で、自分が他人の目にどう映っているかよく知っている人のそれだった。そうしてエッセイには、棟方志功を輩出した青森の中学では、版画が美術の授業の中心だった、ということが書かれていた。それが当たり前の授業、日本中どこの中学生もおなじことをやっていると思っていた、と。やがて、それが当たり前でもなんでもなく、特殊、青森だけだったことを知る。ナンシー関はそこで、自分があたりまえと思っていることは、あたりまえでもなんでもないのだ、と書く。あたりまえ、と思ってしまうことの危険、同時に、他者に対してはそれが暴力的でさえある、ということ。

おそらく多くの媒体でナンシー関に求められていた文章というのは、そういうものではなかったのだろう。けれど、もう少したくさんそんな文章があったら、もう少しあの人も長生きできたのではなかったか、というような気がする。

そんなことを言っても、意味はないのだけれど。


ロアルド・ダール「発端と悲劇的結末」その3.

2009-10-06 23:01:06 | 翻訳
その3.

「どうしましょう!」枕からがばっと身を起こして悲鳴を上げた。「オットーが生まれたときもちょうど同じ、名前のことを聞かれたんです! っていうことは、あの子もまもなく死んでしまうのね! いますぐ洗礼をしてやってください!」

「まあ、落ち着いて」医者はそう言うと、両肩を優しく押さえた。「ずいぶんおかしなことをおっしゃる。そんなことはありませんよ。わたしはただの詮索好きな年寄りなんです。それだけのこと。名前の話をするのは楽しいものでしょう? アドルフスというのは実にいい名前じゃありませんか。わたしのお気に入りのひとつだ。さあ、お坊ちゃんのお出ましですよ」

 宿屋の女房が大きな胸の上に赤ん坊を抱えるようにして、部屋を横切ってベッドの方までやってきた。「さあ、ちっちゃな美男子さんの登場だよ!」顔を輝かせて叫んだ。「抱っこしてあげたいだろう、奥さん? あたしがそっちへ連れてってあげようか」

「赤ちゃんはちゃんとくるんでありますよね?」医者はたずねた。「ここはひどく寒いですからね」赤ん坊は白い毛糸のショールにしっかりとくるまれていて、小さなピンク色の顔だけがのぞいている。宿屋の女房は、赤ん坊をベッドに寝ている母親の傍らにそっと置いた。「さあ、ママだよ。これであんたも寝たまんま、心ゆくまで赤ちゃんを眺められるよ」

「あなたもきっと夢中になりますよ」医者はそう言うと、にっこりと笑った。「元気なかわいいお子さんですよ」

「まあ、この手のかわいいこと!」宿屋の女房は嘆息をもらした。「このすんなりした形のいい指を見てごらんよ」

だが母親は動こうとしない。そちらを見ようと頭を動かすことすらしなかった。

「さあさあ」宿屋の女房は声を強めた。「かみつきゃしないよ!」

「見るのが怖いんです。今度生まれた赤ちゃんは元気だ、なんてふりは、わたしにはできない」

「バカなことをお言いじゃないよ」

 ゆっくりと母親は頭を動かして、傍らの、枕に横たわる小さな純真無垢の顔を見やった。

「この子がわたしの赤ちゃん?」

「もちろんだよ」

「でも……ああ……なんてかわいいんでしょう」

 医者はきびすを返してテーブルの方へ歩いていくと、診察道具をかばんにしまい始めた。母親は横になったまま赤ん坊に見入り、笑みを浮かべ、そっと赤ん坊にふれ、満足の吐息をもらしている。

「こんにちは、アドルフス」とささやいた。「こんにちは、わたしのちっちゃなアドルフ……」

「シィーッ!」宿屋の女房が言った。「聞こえるかい? 旦那さんが来たよ」

医者は戸口まで歩いていき、ドアを開けて廊下をのぞいた。

「ヒトラーさんですか」

「そうです」

「お入りください」

 深緑色の制服に身を包んだ小柄な男が、部屋に静かに入ってくると、あたりを見回した。

「おめでとうございます」医者が言った。「男のお子さんですよ」

 男は左右にぴんと張った、ひどく立派なくちひげのもちぬしだった。フランツ・ヨーゼフ皇帝にならって、入念に手を入れたものらしい。しかもビールの臭いがぷんぷんしていた。

「息子か?」

「そうです」

「どんな様子だ」

「お元気ですよ。奥様もお元気です」

「結構」

父親となった男は、奇妙な、小さく跳ねるような足取りで、妻が寝ているベッドの方へ歩いていった。「さあ、クララ」口ひげの下から笑いかけた。「どうだった?」かがみ込んで赤ん坊を見やっている。それからいっそう深く腰を曲げた。素早い、ぎこちない仕草で自分の顔を、赤ん坊の間近、三十センチあたりまで近づける。妻はそのすぐ横で枕の上に頭をよこたえたまま、懇願するようなまなざしで夫を見上げていた。

「この子はそれはそれは立派な肺を持ってるよ」宿屋の女房は断言する。「この子がこの世に出てきたとき、どんだけ大きな声を出したか聞いとかなきゃ」

「そうは言ってもな、クララ……」

「何ですの、あなた」

「こいつはオットーよりもまだちっぽけじゃないか」

医者は慌てて二、三歩近寄ってきた。

「このお子さんにはどこも問題はありませんよ」

ゆっくりと夫は体を起こし、ベッドから離れて、医者の方に向き直った。困惑し、打ちひしがれた表情を浮かべていた。「嘘を言ってもらっちゃこまりますよ、先生」と彼は言った。「どうなるかわかってるんです。またおんなじことの繰りかえしだ」

「いや、わたしの言うことを聞いてください」医者は言った。

「だが、あんただって他の子がどうなったか知ってるんでしょう、先生」

「他のお子さんのことは、ひとまずお忘れになってください、ヒトラーさん。このお子さんに賭けてあげてください」

「こいつはえらくちっちゃいし、弱そうじゃないか!」

「ヒトラーさん。お坊ちゃんはたったいま、生まれたばかりなんです」

「それにしたって……」

「あんた、いったい何するつもりなんだい!」宿屋の女房が悲鳴をあげた。「この子をどうにかしようとするなんて!」

「いい加減にしなさい」医者は厳しい声を出した。

 母親はむせび泣いていた。全身を震わせて泣いていたのだった。

 医者は夫の方へ歩いていき、肩に手をかけた。「奥さんを大事にしてあげてください」とそっとささやいた。

「どうか。何よりもそれが大切なんです」肩に置いた手に力をいれて強くつかむと、ベッドの方へそれとなく押しやった。夫は逡巡している。医者は、早く行ってあげなさい、とさらに指に力をこめた。しぶしぶながら、やっと夫はかがみ込み、妻の頬に軽くキスをした。

「何とかなるさ、クララ」彼は行った。「泣くのはおよし」

「わたし、どうかこの子を生かしてください、って一生懸命お祈りしてきたのよ、アロイス」

「ああ」

「もう何ヶ月間も、毎日毎日教会に行って、ひざまずいて、この子だけはどうか生かしておいてくださいって」

「ああ、クララ、そうだったな」

「三人でたくさん、もうこれ以上わたし、耐えられない。わかるでしょう?」

「もちろんだ」

「この子、生きていけるわよね、アロイス。絶対、絶対……ああ、神様、どうかこの子にご加護をお与えください……」



The End




(※後日手を入れてサイトにアップしますのでお楽しみに)



ロアルド・ダール「発端と悲劇的結末」その2.

2009-10-05 23:14:16 | 翻訳
 その2.

 医者はベッドの傍らから離れ、窓辺に歩いていくと、そこに立って外に目をやった。雲が低く垂れこめ、しのつくような雨の四月の午後だった。通りの向こうに並ぶ家いえの赤い屋根には、瓦をたたく雨がしぶきをあげている。

「アイダは二歳だったんです、先生……それはそれはきれいな子供で、朝、服を着せてやってから、何ごともなく夜にまたベッドに寝かせてやるまで、片時も目を離すことができませんでした。あの子にもし何か起こったら、って、気が気じゃなかったんです。グスタフが死んでしまったあと、かわいいオットーもいけなくなって、だからもうあの子しかいませんでした。わたしはよく夜中に起き出して、忍び足で揺りかごのところへ行って、あの子の口元に耳をつけて、息をしているかどうか確かめたんです」

「何とか眠るようにしてください」医者はそう言い、ベッド脇へ戻った。女の顔は蒼白で、血の気がなく、鼻孔から口にかけて、うっすらと青黒くふちどられていた。幾筋かの湿った髪の毛が額にはりついている。

「娘が死んでしまったとき……そのことが起こったとき、わたしはもう妊娠していたんです、先生。アイダが亡くなったとき、お腹の子はもう四ヶ月になっていました。『この子なんていらない!』お葬式のあと、わたしは言ったんです。『もう産みたくないわ! もう子供のお葬式なんてあげたくない』主人は……主人はビールの入った大きなグラスを手に持って、お客さんのあいだをぶらぶら歩いていました……ぱっとこっちを向いて言ったんです。『クララ、教えてやろう、いい知らせだ』

先生、考えてもみてください。わたしたち、ちょうど三人目の子を埋葬したばかりだったんです。なのに、ビールの入ったグラスを持ったまま、そこへ突っ立って、いい知らせがあるなんて言うんです。『今日、ブラウナウに行くことが決まったぞ』って。『だからすぐに荷造りにかかるんだ。おまえも新規まき直しだ、クララ』それから言いました。『新しい場所に行けば、新しい医者だって見つかるだろう……』」

「おしゃべりはもうよしましょう」

「先生がわたしの新しいお医者さんなんですよね」

「そうです」

「そうしてここがブラウナウ」

「そうです」

「わたし、怖いんです、先生」

「できるだけ不安にならないように、気持をしっかり持って」

「今度のこの四番目の子には、どれほど望みがありますか?」

「そんなことは考えちゃ駄目です」

「どうしようもないんです。こんなふうにうちの子が死んでしまうのは、何か遺伝的な原因があるにちがいないんです。ほんとにそうに決まってるわ」

「バカバカしい」

「オットーが産まれたとき、主人がなんて言ったと思います? 部屋に入って来るなり、揺りかごに寝ていたオットーのところへ行って、こう言ったんです。『なんで俺の子はどいつもこいつもちっぽけで弱々しいんだ?』って」

「きっと聞きちがいだと思いますよ」

「主人はオットーの揺りかごの上に頭をかがめて、まるで小さな虫を観察するみたいに様子をうかがってから言ったんです。『どうしてもうちょっとましなやつが生まれてこなかったんだろうな。それ以上、言うこともねえな』って。それから三日経って、オットーは死にました。三日目に急いで洗礼を受けさせて、その晩に亡くなったんです。それからグスタフが死にました。それからアイダが。みんな死んでしまったんです……それから急に、家の中が空っぽになってしまった」

「いまはそのことを考えるのはおよしなさい」

「この子はすごく小さいのですか」

「お子さんはまったく問題がありません」

「でも、小さいんですよね?」

「多少小柄かもしれません。でも、小さい赤ちゃんは、どちらかというと、大きい赤ちゃんより丈夫なことも少なくないんですよ。考えてもみてください、ヒトラーさん。今度ばかりは来年のいまごろ、歩き始めるようになるんですよ。想像するだけで楽しくなってきませんか」

彼女はそれには返事をしなかった。

「二年もすれば、今度は頭がぶっ飛ぶほどの勢いでしゃべりだしますよ。そのおしゃべりで、きっと頭がどうかなりそうになるにちがいない。お子さんのお名前はもう決まっているのですか?」

「名前……?」

「そうです」

「わかりません。わからないんです。主人が、男の子だったらアドルフォスにしようと言っていましたけれど」

「となると、アドルフと呼ばれることになりますね」

「そうなんです。主人はアドルフっていう名前が好きなんです。アロイスに似てるでしょう? 主人の名前がアロイスなんです」

「すばらしいじゃありませんか」


(この項つづく)



ロアルド・ダール「発端と悲劇的結末」

2009-10-04 23:04:55 | 翻訳
今日からロアルド・ダールの短篇 "Genesis and Catastrophe" を訳していきます。
誰の話かわかりますか?

原文はhttp://arsethica.files.wordpress.com/2008/03/genesiscatastrophe_dahl.pdfで読むことができます。

* * *

発端と悲劇的結末 ――ある真実の物語
by ロアルド・ダール


その1.

「何一つ異常はありません」医者は言葉を続けた。「横になって、楽にしてください」なんだかひどく遠くの方から、自分に向かって声を張り上げているように聞こえる。「男のお子さんですお坊ちゃんですよ」

「何ですって?」

「お元気そうなお坊ちゃんです。言っていることがわかりますね? 元気な男のお子さんですよ。さっき泣き声が聞こえたでしょう?」

「先生、あの、元気なんでしょうか」

「もちろんです。問題ありません」

「あの子に会わせてくださいませんか」

「じきお会いできますよ」

「異常はない、っておっしゃいましたよね?」

「その通りです」

「まだ泣いてます?」

「少しお休みになられてはどうです。ご心配なさるようなことはありませんよ」

「なんであの子、泣くのをやめてしまったんですか、先生。いったい何があったんですか」

「興奮なさっちゃいけません。何一つ異常なことはないんですから」

「会わせてください。どうか、あの子に会わせて」

「奥さん」患者の手を軽く叩きながら医者は言った。「かわいい、丈夫で元気なお子さんですよ。さっきもそう言ったでしょう」

「あの女の人、うちの赤ちゃんに何をしてらっしゃるんです」

「お母さんに会うために、赤ちゃんをきれいにしてあげてるんですよ」医者は言った。「赤ちゃんを軽く洗ってあげているのです。それだけですよ。それまで少しのあいだ待っていてください」

「ほんとうに、あの子、大丈夫なんですね?」

「まちがいありません。だから横になって休んでください。眼を閉じて。お休みなさい。大丈夫。そう、それでいいんですよ。良い子だから……」

「ずっとお祈りしてきたんです、先生。あの子が死んだりしませんようにって」

「もちろん赤ちゃんは元気ですよ。一体何をおっしゃっておいでです?」

「ほかの子は駄目だったから」

「なんですって?」

「子供たちはみんな死んでしまったんです、先生」

医者はベッドの傍らに立って、若い女の青い、やつれた顔を見下ろしていた。今日初めて会ったのだ。女と夫はこの町にやってきてまだ間がなかった。出産の付き添いでやってきた宿屋の女房が、この女の亭主は国境の税関で働いているのだと教えてくれた。ふたりはほんの三ヶ月ばかり前、行李をひとつとスーツケースをひとつ持って、宿屋にやってきたばかりだという。宿屋の女房が言うには、女の亭主は飲んだくれで、ふんぞりかえって態度の大きい乱暴者らしい。だがまだ若い妻の方は、気の優しい、信心深い女だということだった。いつも悲しげで、笑顔を見せることもないのだという。女がやってきてもう何週間にもなるが、宿屋の女房は、女が笑ったところを一度も見たことがなかった。噂では、なんでもこの男はこれまでに三度、結婚をしていて、最初のつれあいに死に別れたあと、後添いとは芳しからぬ理由で離婚したということだった。何にせよ、ただの噂ではあるが。

 医者はかがみ込んで、患者の胸のところまで、シーツを少し引っ張りあげた。「ご心配には及びませんよ」と優しく声をかける。「非の打ち所もない、元気な赤ちゃんですからね」

「ほかの子もまったく同じことを言われました。だけど、みんな死んじゃったんです、先生。この一年半のあいだに、わたし、三人の子供を全員亡くしたんです。だから、心配で心配でたまらないんです」

「三人ですって?」

「この子は四人目です……この四年間で」

 医者は剥きだしの床に立ったまま、落ち着かなげに体をずらした。

「子供がみんな死んでしまうのがどんな気持だか、先生にはおわかりじゃないでしょう? 三人の子が、徐々に、ひとりずつ、つぎからつぎへ死んでいくのがどんなだか。わたしはそれをずっと見ていたんです。グスタフが身につけていたレースがいまも目に浮かぶわ。ベッドでわたしの隣りに寝ていたんです。グスタフはそれはそれはかわいい赤ちゃんでしたのよ、先生。だけどずっと具合が悪かったんです。どの子もずっと具合が悪くて、誰も助けてやることができなかったなんて、どれほどひどいことか」

「おつらかったでしょうね」

女は目を大きく見開いて、しばらくのあいだ医者の顔をまじまじと見つめた。それからふたたび眼を伏せた。

「女の子はアイダと言いました。あの子が亡くなったのはクリスマスの少し前。たった四ヶ月前のことです。先生にアイダをお見せしたかったわ」

「あなたには新しいお子さんがいるんですよ」

「だけど、アイダはそれはそれはかわいい子だったんです」

「そうでしょうね」医者は答えた。「わかりますよ」

「どうしてそれがわかるんですか」女の声は高くなった。

「かわいらしいお子さんだったってことはわかります。でもね、今度生まれたお子さんも、やっぱりかわいいお子さんですよ」




(この項つづく)