陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

恩の秤

2009-10-09 23:18:26 | weblog
あまり親しくない関係、というか、有り体に言ってしまえば、こちらとしては、どちらかといえば関わり合いを避けたいぐらいに感じている相手から、何かしら恩を受けるのは、気の重いものである。

菊池寛の「恩を返す話」の主人公も、自分の命が助かったことより、目の上のたんこぶのような相手から恩を受けたことを悔やんでいる。命が助かったからこそ、悔やむこともできるのだ、とわかっていても、こんなことならいっそ死んだ方が良かった、という主人公のほぞをかむような気持も十分に理解できる。

恩を受けたくない相手から、心ならずも恩を受けてしまった。となると、さて、どうしたら良いのだろう。即座にそれに相応する「恩」を、こちらも返すことだ。事実「恩を返す話」でも、神山甚兵衛は自分の命を救ってくれた佐原惣八郎に対して、何とかして恩を返そうと機会をうかがうのである。

仮に相手が「目の上のたんこぶ」ではないにしても、親しい相手であっても、わたしたちが「恩」を受けたときはなんとなく居心地が悪い。あたかもわたしたちの心のなかに、秤のようなものがあって、世話をされたり便宜を図ってもらったりなどの「恩」を受けたら傾いてしまうかのように。だからすぐにお返しをして、秤を平行に戻しておかなければならない……。

お金は借りたらすぐに返すし、本でも物でも借りたなら、用事がすめばすぐに返す。それだけでなく、ちょっとしたお礼の品も添えることもある。たちまち借りを返せないときは、とりあえずお礼だけでも言っておく。「お礼の言葉」も一種の「恩返し」の先払いのようなものだろうか。

ただ、わたしにはひとつだけ、長いこと不思議に思うことがあった。

確かに、デートのときの食事代やお茶代はどちらが払うかというのは、さまざまな要素の絡み合うデリケートな問題であるように思う。だが、そういうデリケートな配慮が必要な関係ではない、恋人とも呼べない、特に好きなわけですらないような相手と出かけるときに、「すべて相手持ちはあたりまえ」と言ってはばからない女の子たちのことだった。

相手の男の子が、食事をおごり、映画やコンサートのチケットをおごり、送り迎えをする、というのはわかる。言葉は悪いが「恩」を売って、秤に傾斜をつけたいわけだ。お返しは、つぎの「恩」の呼び水となる。テニスのラリーが続くように、相手が打ち返しやすいところへ正確なサーヴを打つようなものだ。

だが女の子の方は、それを「恩」とはまったく考えていないようだった。
友だちであれば、受けた恩や世話に対して、きちんきちんと返していくような子、微妙なバランスまで考えるような子が、自分を誘う男の子に対しては、まったく「恩」とも感じない。男と女の関係というのは複雑なものだなあ、と、当時のわたしは思っていたのだった。

ところが先日、過去にそんなことをやっていたという人と話す機会があった。あのころはわたしも若かった、と笑いながら当時の話を聞かせてくれたので、わたしも気楽にかねてからの疑問をぶつけてみたのである。

すると、「恩の秤」はきちんと釣り合っている、とその人は言った。「恩」は何もお茶代や食事代だけではない。相手に好意も持っていない自分が、一緒に出歩いてあげることが「恩」で、相手はそれを返すために食事代を払ったり、お茶代を負担したりするのだ、というのである。

「いま考えると、ほんと、世間知らずだったと思う。一体何様、って感じよね」

それを聞きながら、なるほど、とわかって、おもしろく感じた。
やはりそこにも「恩の秤」は働いていたのだ。

わたしたちは恩や世話や物のやりとりをしながら、そのやりとりによって関係を確認しているのだ。そのたびごとに動いていく「恩の秤」の傾きで、上下関係を測りながら、微妙なバランスのなかで人間関係を形成している。その関係がどんなものかは、動くからこそ、確認できるのだろう。だからわたしたちは、関係のある相手に対して、何らかの働きかけをし続けるのだ。