陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

顔の話

2009-10-12 22:51:17 | weblog
死んでしまった人はいい人、という言い方があるが、確かにマイケル・ジャクソンに関しては、その言葉も当てはまるような気がする。

ここ数年は、マイケル・ジャクソンといえば、整形に整形を重ねたあげく、顔面が崩壊した、とか、鼻が落ちた、などといったグロテスクなうわさ話ばかりが伝えられていた。それがほんとうかどうかとは無関係、「いかにもありそうな話」であれば、十分笑い話として通用する。そんな扱われ方をしていたように思う。

昔から、芸能人の誰それは整形をしている、という話はよく聞いた。誰それと同じ高校だったが、当時はいまのように目が二重ではなく、鼻も低かった、という話も聞いたことがある。

だが、そんな話を聞くと、オーディションに受かったとき、もしくは街でスカウトされたには「整形前」の顔だったのだから、どうしてそんなにパッとしない女の子が芸能人になれたのだろう、その状態からいまの顔を想像して合格させたり声をかけたりしたのだとしたら、見いだした人の眼力というのはは、占い師並みということになるなあ、と思ったものだが、美容整形というのは、ほんとうにそこまで顔かたちを変えることができるのだろうか。

佐々木正人の『からだ ―認識の原点』には、こんな例があげてある。「戒厳令下チリ潜入」という映画を撮るために、亡命中だった映画監督のミゲル・リティンは、変装して母国チリに潜入することにした。メガネをかけ、ヒゲを剃り、ウルグアイ人から身振り、話し方などを学んだ。

だが、変装の手助けをした心理学者は「笑ったら死ぬぞ」と警告したという。つまり、どれだけ変装したとしても、表情はすべてをぶちこわす、ということなのである。人間はそれくらい、人の表情を見分けることができるのだ。

このエピソードが教えてくれるのは、わたしたちは「顔」を見ているわけではなく、表情を見ている、ということだ。笑顔、といえば一種類しかないような気がするが、人の笑顔はそれぞれにちがう。百人いれば百通りの笑顔、その人独特の笑顔があって、わたしたちが見分けているのは、顔の造作ではなくその人ならではの笑顔なのである。

そう考えていくと、目を大きくするとか、鼻の形を変えたりするとかが、どれほどその人の表情に影響を及ぼすのだろうか。

近所の子供たちが小学生から中学生、高校生へと成長していくのを見ていると、それぞれの顔の変化が、その子供たちがどう生きているかと密接に関連していることがよくわかる。中学時代、暗い顔をしていた子が、高校入学とともに、なんだか憑き物が落ちたように、明るくのびやかな顔になっているのを見ることもあるし、小学生時代、あどけなくかわいらしかった子が、髪を染め、眉を抜き、化粧をして次第に無惨な顔になっていくのを見ることもある。

ある人物の顔と、その人が生きている「物語」は、端で見ていてもはっきりとわかるほどの関連がある。そこに整形を施すことによって、急激な変化を顔に与えることは、おそらくその「物語」にゆがみを生じさせることになるのではあるまいか。

マイケル・ジャクソンは、自分の望む顔を手に入れようと、整形を繰りかえした。アルバムのジャケットを見るだけでも、彼の顔が別人のように変わっていっていることがわかる。だが、変わっていっているのは、造作だけなのか。人種や性別からの逸脱は、人間らしい表情からの逸脱でもある。望む顔になれば、望む人生が手に入れられると思ったマイケル・ジャクソンは、逆に、どこまでいっても望む顔になれない、という逆説のなかにはまりこんでいってしまった。そうして、いつのまにか彼の顔は、グロテスクなうわさ話とともに語られるようになってしまったのだ。

マイケル・ジャクソンの最後のコンサート映像を編集した映画がまもなく公開されるらしい。だが、もはや誰も彼の顔について、意地の悪いことを言うことはない。もはや整形に整形を重ねた顔が崩れることもなければ、そこからさらに整形を施すこともないのだから。

良い人になったかどうかはさておいて、少なくとも彼の名前は、やっとその音楽やダンスとともに語られるようになったわけだ。

だが、マイケル・ジャクソンを思い出そうとしても、いったいどのマイケルを思い浮かべたら良いのか、わたしはとまどってしまう。何度も見たのは「スリラー」のMTVだが、いま見てみると、なんだかそれもマイケルとはちがうような気がする。

彼としてみれば、いったいどの自分を思いだしてほしいのだろうか。
まあ、そんなことなどどうでもよくなったところに行ってしまったのだろうが。


※ちょっと出かけてました。
明日くらいにはサイトにアップできると思いますので、またよろしく。