陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

リリアン・ヘルマン 「ジュリア」その3.

2006-04-11 21:26:21 | 翻訳
その日はずっと、サント・シャペル教会やそのまわりで時間を潰した。昼食も夕食も、どうやっても喉を通らず、ドッティとアランがマーフィ夫妻と一緒に夕食に出かけるにちがいない時間を見計らってから、荷造りをするためにホテルに戻った。ドッティとアランには、出発は明日の朝早いので、モスクワから帰ってきて、またお会いしましょう、とメモを残す。一日中、自分の思いが千々に乱れて、結論を出すことができないままでいた。だから横になって、自分というものの見極めがつくまで眠らずにいようと思ったのだ。けれども、決断しなくてはならないとなると、それが重要なものであればなおのこと、わたしは決まって眠くなる。おそらく直観に従って下すもので、考えて結論を出すというのは、結局はほかの人がそうすべきだ、と言っていることにほかならない、と理解していたからだろう。いずれにせよわたしはぐっすりと眠って、起きたときには急がなければ早朝の列車に間に合わない、という時間になっていた。

ロビーでドッティとアランの姿を見たときには困ったことになった、と思った。ふたりはわたしを送っていこうと待ちかまえていたのである。その必要はないわ、というわたしの言い方があまりにもかたくなで、しかも不器用なものだったので、裏のある話には驚くほど鼻の利くアランが、一緒に来られちゃまずいような理由でもあるのかい、などと言う。アランがタクシーを呼びに行った隙に、ドッティには謝っておいた。
「ごめんなさい。邪険な言い方をしちゃって。だけど、アランがいると、イライラしちゃうのよ」

ドッティは笑った。「まぁ、リリーったら。アランにイライラしなくなっちゃったら、気がヘンになった証拠よ」

駅に着いて荷物が運ばれていくと、わたしはふたりに、もう帰っていいから、とせっついた。ところが何かアランをおもしろがらせるものがあったらしい。おそらく、わたしがピリピリしていたからではなかったか。少なくともアラン自身が言うように、これまでモスクワに向けて旅だつ人間を見送ったことがない、などという理由では断じてなかったはずだ。アランはばかばかしいジョーク、ロシアの俳優に言ってはならないことだとか、キャビアをくすねるのにはどうしたらいいか、などと言い続け、まさにそれはアランのようなくだらない連中が腹に一物あるようなときの物言いなのだった。

あの白髪混じりの男がプラットフォームをこちらに向かってくる。すぐそばまで来たときに、アランが言った。「昨日、チュイルリー公園で一緒にいたやつじゃないか」とっさにわたしがアランに何か言おうとしたとき――いったい何を口にしようとしていたのだろう?――、男はわたしの横を通り過ぎ、それから向きを変えて戻っていこうとした。

わたしは追いかけた。「ミスター・ヨハン、ちょっと待ってください、ミスター・ヨハン」振り向いた彼に、度を失ったわたしはわめきちらした。「行ってしまわないで。お願い」

男は険しい目をしたまま立ちつくし、無限とも思われる時間が過ぎた。それからゆっくりと、ふたたびわたしの方に歩いてきた。まるで注意しながら、ためらいながら、とでもいうように。

そこでわたしは思い出したのだった。「ただ、あなたにこんにちは、って言いたかっただけなんです。こんにちは、ミスター・ヨハン、こんにちは」
「こんにちは、マダム・ヘルマン」

アランが横に来た。ここは十分警戒してかからなければ。「こちらはキャンベルさんとパーカーさんです。キャンベルさんは昨日わたしたちを見てらして、そちらがどなたか、とか、わざわざお見送りにいらっしゃるほど、わたしたちは親しいのか、とか、お知りになりたいんですって」

ミスター・ヨハンはよどみなく答えた。「もしほんとうにそうだったら光栄なのですが。実のところ、ポーランドに発つ甥を捜しているところなんです。客室にいないんです。遅れたんだろう、まったくそれが癖でね。甥の名前はW.フランツ、二等の四号車なんですが、もしわたしが会えなかったときは、どうかわたしが来ていたと伝えてくださったらありがたいのですが」そういうと、帽子をちょっと上げた。「マダム・へルマン、あなたがこんにちは、と言ってくださる機会に恵まれて、大変感謝しております」

「ええ、そうですね」とわたしは言った。「ほんとに、こんにちは、こんにちは、って言えて」

ミスター・ヨハンが言ってしまうとアランが言った。「なんて変なことを言ってるんだ。外国人みたいな話し方だったぜ」
「それは失礼」わたしは答えた。「あなたがヴァージニアで喋ってるときみたいに訛ってなくてごめんなさいね」

ドッティが大声で笑ったので、わたしはキスして列車に飛び乗った。不安のあまり、反対の方向へ行ってしまった。車掌がわたしの客室の場所を教えてくれたころには、列車はすでに駅を離れていた。その車両の手前の連結部に、スーツケースと包みをふたつ持った若い男が立っている。その男が話しかけてきた。「わたしがW.フランツです。甥で、二等客車の四号の。これはミス・ジュリアからのお誕生日プレゼントです」そう言ってわたしにキャンディーの箱と〈マダム・ポーリーン〉とロゴの入っている帽子の箱を渡してくれた。そうして軽く会釈するといってしまった。

わたしは二つの箱を、客室に持って入った。若い女性が二人、左のシートに坐っている。ひとりは小柄で痩せており、杖をもっていた。もうひとりは体格の良い女性で、おそらくは二十八歳といったところ。暖かい日だったのだが、分厚いオーバーを体にしっかりと巻き付けていた。ふたりに笑いかけると、向こうも黙礼を返し、わたしは腰を下ろした。箱を脇に置いたところで初めて帽子の箱にメモが留めてあるのに気がついた。仰天したわたしは、トイレに持っていこうかとも考えたのだが、かえって怪しまれる、と考え直し、そのメモを開いた。そのころのわたしは詩でも、誰かの言葉でも、ものごとの様子でも、なんでもはっきりと記憶に留めることができたのだが、長い歳月のなかでそれもすっかりぼんやりしたものになってしまった。だがそのメモの一言一句はいまだにはっきりと記憶に残っている。

「国境ではキャンディの箱は座席に置いたままにしておいて。この箱は開けて、帽子はかぶるの。あなたが彼らのためにやろうとしてくれることのお礼は言わない。わたしからのお礼も。だけど、わたしがいつだってあなたを愛していることは、書いておくわ。ジュリアより」

メモを握りしめたまま、ずいぶん長く坐っていた。自分という人間を理解できる年齢になってから、こうした精神状態にはおなじみになっていた。その状態に陥ると、未だにわたしは怯え、自分の手を動かすことすらかなわなくなってしまう。自分の知性というものを、必要以上に謙遜してみせる愚かしさの持ち合わせはない。知的であると思う面もあるけれど、わたしには、子供の頃からある種の単純な問題に直面すると、出口が見つからなくなるほど複雑にしてしまう、という側面もあったのだ。ほかの人なら即座に把握できることがらが、どうしても理解できない。そしてまさにそのときがそうだった。ジュリアはどこで帽子の箱を開けたらいいのか、教えてくれていない。通路か、トイレへ持っていけば、向かいのふたりに変に思われるだろう。そうしてわたしは長いことなにもできないまま坐っていたのだが、列車がいつ国境を通過するのか、自分が知らないことに気がついた。ほんの数分後なのか、数時間後なのか。決断しなければならないのだが、わたしにはどうしてもそれができないのだった。

(この項つづく)