陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

二穴パンチ

2006-04-05 23:03:39 | weblog
以前、プリンタについて書いたときにも触れたけれど、わたしはブラウザで読むより、印刷したものを読む方が好きだ。文章に手を入れるときも、必ずプリントアウトすることにしている。

校正がすんだ原稿は、数日取っておいてから、必要がなくなったころを見計らってたいてい捨ててしまうけれど、メールや文書類はパンチで穴を開け、それぞれのフォルダに閉じておく。

わたしが使っている二穴パンチは、十年以上前、まだわたしが学生だった頃、ほんの一時期所属していたあるグループの備品だったものだ。用事があって借りたまま、結局そこから離れることになってしまって、返す機会を逸したまま、それほど高い物ではないことをいいことに、いつの間にか自分のものにしてしまい、気がつくと十年以上がたってしまっている。

金属製で、適度な重さがあって、使い勝手がいい。底のプラスティックの部分が数年前に、一部破れたので、ガムテープを貼って補修している。手で押すところが銀色で、ダークグリーンのボディには白いマジックで"Meiden Voyage"と落書きがしてある。カリグラフを模した美しい書体なのだが、残念ながら"Meiden"は"Maiden"の間違いだ。この落書きをしたのはわたしではない。

この落書きをした上級生は、わたしと同郷の人間だったので、大学に入学したころから何度か顔を合わせていた。入学して間がないころ、いまはなくなってしまった丸善に連れて行ってくれたこともある。「ここに梶井基次郎はレモンを置いたんだ」蛍光灯の白い光がまぶしい清潔な店内には『檸檬』が平積みにされていて、それを除けば梶井基次郎を思わせるようなものはなにもなかった。わたしが欲しかったラッセル・バンクスの新刊を買っていると、「そんなの読むの」と怪訝な顔をしていたのは、おそらく知らなかったのだと思う。

お茶を飲みながら、北一輝について、盛んになにかしゃべっていたけれど、自分くらいになると、北一輝のどういうところが知りたいと思えば、誰の何を読んだらいいか、すぐわかるんだ、という自慢話ばかりで、退屈になってしまったわたしは、二階の喫茶店からアーケードの屋根というのは、薄汚いものだな、と外を見下ろしていた。

それっきり、彼とはしばらく会う機会もなかったのだけれど、数年後、ある読書会をきっかけに、もういちど顔を合わせるようになる。
わたしと語学が一緒の子が、その先輩の彼女だという奇遇に、驚いたりもした。
女の子はやたら明るい元気な子で、ふたりの取り合わせは意外だったけれど、

カリグラフをやっている、ということで、読書会の案内や、季刊誌の表紙を、美しい凝った書体で書いていた。そればかりでなく、みんなで本について話し合っているときも、いつも手を動かしながらコピーの片隅や備品に落書きをしていた。

わたしがそこを離れたのはこの話とはまったく関係がない。ただ、一冊、リーフレットを作る作業を手伝ったのを最後に、そこを離れた。その作業のときに、二穴パンチが必要だったのだ。

後に語学の時間に顔を合わせたとき、彼女が、なんかもうダメみたい、というのを聞いた。会ってもケンカばっかりだし、言ってることはかみ合わないし。好きなのか、好きじゃないのかもわからなくなってきちゃった。
わたしに知恵のあるはずもなく、まぁ、ダメなときはダメだからね、といったおよそ役に立たないことを言ったのではなかったか。

やがて彼は東京でかなり名の通った企業に就職することになった、という話を聞いた。その話を聞いてから、自殺した、という話を聞くまで日がなかったために「だって、春から○×の社員になるんじゃなかったの?」という、ひどく的はずれの返事をしてしまったのだった。

別れるときに相当もめたらしい彼女を責める声もあったらしい。
わたしはそこまで親しくなかったために、告別式に顔を出しただけだけれど、泣き崩れる彼女を、ふたりの女の子がなんとかして抱きかかえようとしていた。

うわさ話はいろいろと耳に入ってはきたけれど、ほとんどつきあいもなく、その先輩のひととなりさえたいして知らなかったわたしに、自殺の原因などわかるはずもない。それでも、Meiden Voyage という字を見るたびに、その先輩のことを微かに思い出す。

失望したり、ひどく落ち込んだり、暗闇に立たされたりしたとき、内側から自分を支えるのは何なんだろう、と、ときどき思うことがある。

人によっては、信仰、という答えもあるだろうし、~のため、という答えもあるだろう。

ただ、今日まで生きてきたじゃないか、という答えも、あるのではないか、と思う。

いままでだって、何度も大変なことはあったし、もう立ち直れない、と思うことだってあった。それでも、どれほどつらくても、明日になれば、今日より少しだけ、ましになる。またつらさや悲しさがぶり返すこともあるけれど、時間をかければ、少しずつ、立ち直る。
どれほど自分には手の出しようがないように思えても、状況を変える方策はかならず見つかる。だって、これまで自分はそうしてきたんじゃなかったか。

それがどんなささやかな蓄積であっても、まぎれもなく、自分がやったこと、なしたことはある。そうして、その結果として、いまの自分があるのではないんだろうか。

雨のあがった夕方、西の山からもやがたちのぼっていて、なんとも美しい光景を見た。
桜も、日に日に咲いていく。
それを、もうまた見ることができるだけでも、世界は生きている価値がある。