陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

記憶の話

2006-04-30 22:03:17 | weblog
わたしは昔は記憶力が良かった。
昔は、と書いてしまうのも、いまでは見る影もないからである。

いまでも、本を読んだりして、ここはポイントだな、と思ったり、使えるな、と思ったりする。そうするところは迷わずポストイットをはりつけておくのだけれど、それはほとんどの場合、正確に引用するために必要なだけで、頭に刻んでおいた内容を忘れるということはない。

ところが、アパートの断水の日時とか、古紙回収とか、あるいはどうでもいい(と判断をくだすのは、当然わたしである)用事や集まりの日時、これはもう、気持ちがいいくらい忘れる。そんなこともあったな、と思うのはまだいいほうで、聞いたことすら忘れてしまうこともある。最近では、その通知を見た段階で、これは忘れそうだ、とだいたい見当がつくので、気をつけておかなくては、と、カレンダーに印をつけ、冷蔵庫の前に貼り、携帯のカレンダーにもマーキングしておくのだが、それでも忘れる。あとかたもなく、忘れる。朝、出かける前にカレンダーを見て、そのことを確認していたとしても、その時間が来る頃にはきれいさっぱり忘れていることも少なくないし、冷蔵庫の前のピンナップは、じつはわたしのコレクションなので(含嘘)、肝心なとき肝心なものは決して目に入らない仕組みになっている。携帯は、日常的に見るという習慣がないので、実はほとんど意味がない。

先日、フリーマーケットに初めて参加する、という友人が、仕事は休みなんでしょ、絶対来てね、と言ってきた。聞いた段階で、ああ、これは忘れるな、と思ったわたしは、当日もう一度電話してね、と頼んでおいた。当日、すっかり忘れて日が暮れて、夜になって電話が鳴った瞬間に、はっと思い出した。わたしは彼女から電話を受けて(案の定忘れていたのだけれど、何かあるような気がして、早めにその日の雑用はすませていた)、家を出たところで、そういえば図書館に行かなくちゃいけなかったんだ、と気が変わって、図書館で本を借りて、読み出したら『猫の大虐殺』が大変おもしろかったので、そのまま続けて読んでしまって、あ、そうだ、「ジュリア」の翻訳も手を入れなくちゃ、と翻訳の手入れを初めて、やりだしたらちょっとのつもりが大変な作業になってしまって、気がついたら日が暮れていたのだ。受話器を取りあげ、向こうの声を聞く前に「あー、ごめん、ほんとうにごめん」と謝ったら、とりあえず許してくれた(のだと思う)。ただ、これでもうわたしをフリーマーケットには誘おうとは思わないだろう。それがお互いの平和でもあると思うのである。

最初に、昔は記憶力が良かった、と書いたけれど、なんでもかんでも記憶するのが得意だったわけではない。試験前の一夜漬けなどうまくいったためしがないのだ。

ところがうちの弟は、教科書をひととおり眺めただけで、世界史の年代だろうがややこしい地名だろうが、あるいは英単語だろうが熟語だろうが、端から覚えてしまっていた。
そんなことができるわけがない、と思って、教科書をもとにわたしが質問をしてみる。ほんとうに、全部覚えているのである。

そういう芸当はからきしダメで、一生懸命覚えても覚えても年代にしても王位にしても歴代内閣にしても、ちっとも頭に残っていかないわたしはものすごく悔しく、かつ、うらやましかった(だから結局世界史も日本史もやらなかった。そうして、歴史的常識の欠如に後に泣かされるのである)
ところが弟によると、そんなふうにして覚えた記憶は、試験が終わると、そのまま抜けてしまうのだという。興味があることは別だけれど(彼は小さいころから奇妙な響きの名前や地名をメモ帳にびっしりとコレクションしていた)、試験のために覚えたことは、試験が終わると白紙に戻る。そうしてまたつぎの試験の時には覚えなおさなければならないのだ、と。

それでもわたしからすれば十分にうらやましかったが、いっぽう、わたしが強かったのは、語句や年代ではなく記述のほうである。本であろうが雑誌であろうが新聞であろうが、たいていのことは一度読んだら確実に頭のなかにストックされ、普段、記憶に留めていると意識することがなくても、何かを聞いたら、あ、それはあのとき~で読んだ、と取り出すことができたのだ――ああ、いま書きながら、大変虚しい思いに襲われている。もうこんなことを書くのはよそう。悲しい気持ちになるだけだ。

やはり三十を過ぎたあたりだろうか、意識が途切れると、ふっと忘れてしまうようになった。とくに、イレギュラーな事態がヨワイ。いつもひとりでやっていることに、たまに同行者ができると、いっしょに来たことを忘れてひとりで帰ってしまう。臨時に場所が変更になったりすると、知っていたはずなのに、いつもの場所に出向いてしまう。自分の携帯の電話番号はもちろん覚えていない(五年以上使っているのに)。買い物のためにメモを書いても、そのメモを持っていくのさえ忘れてしまう。自転車置き場の一体どこに自転車を置いたか、毎日のようにわけがわからなくなって、うろうろと探し回ってしまう。
読んだことをいまのように記憶していられるのも、いつまでだろう、と思うと、不安になってしまう。

最近、寝る前に、小説に出てくるさまざまな登場人物の名前を、できるだけ詳しく思い出してみている。
『鳩の翼』に出てくるのは、まずケイト・クロイ、伯母のモード、ケイトの恋人がマートン・デンシャー、アメリカ人娘がミリー・シール、ケイトの父親の名前はなんだっけ……。

眠れないときは『戦争と平和』をやってみよう、と思っているのだが、たいていのとき大変寝付きがよいわたしは、未だそれは試したことがない。六人以上思い出せるかどうかが不安この上ない今日この頃である。