陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

リリアン・ヘルマン 「ジュリア」その7.

2006-04-16 22:20:45 | 翻訳
1934年にはハメットとわたしはロングアイランドに感じのいい家を借り、ハメットが『影なき男』で得た金を、湯水のように使っていた。この年は、わたしたちのどちらもが、飲んだくれていた一年だったといえよう。わたしもハメットや、いつも遊びに来る連中と同じくらい飲んだけれど、わたしはだれよりも若かったし、自分がさらす醜態には、ほとほと嫌気がさしていた。なんにせよ『子供たちの時間』もうまくいかず、元来つきあいのいいたちだったハメットは、飲む酒の目安を軽めにすることに決めた。口にするのはシェリーとポートワイン、ビールだけ。おかげでハメットが飲んだくれることはなくなったが、必要最小限の食事も取らなく、気分はささくれ立ち、意地の悪いあてこすりを繰り返すようになった。そういった何もかもから逃げ出したくなってしまったのだ。ヨーロッパへ行く費用は、ハメットが用立ててくれた。

戯曲を書き上げるまでは戻らないつもりだったので、お金はできるだけもたせる必要があった。まっすぐパリに向かい、小さくて安いホテル・ジェイコブに滞在することにして、誰にも会わない、と決めた。一日に一度散歩に出かけ、二度の食事は労働者が集まる店で取り、フランス語の新聞や雑誌を苦労して読んだ。新聞や雑誌ではたいしたことはわからなかったけれど、それでも人民戦線の結成を知ったのだった。その年、パリでファシストの暴動が起こった――起こるべくして起こったのだ。いまもそのころもたいした違いはないけれど、たいていのアメリカ人がそうであるように、わたしにしてもヨーロッパで起こっている政治的混乱など、自分の生活とはひどく遠いものに感じていたし、事実、ニューイングランドの私立学校でふたりの女性の人生を破滅させてしまった少女を描いた戯曲とは、かけ離れた世界だったのだ。

けれども、一ヶ月もだれにも会わないでいると、寂しくなってきたし、仕事にも飽きてきた。ジュリアに電話をかけ――パリについたばかりのころ、何度か話をしていた――数日、ウィーンで過ごしたいわ、と言ってみた。するとジュリアは、いまは時期が悪いわ、それに盗聴されてる電話でこんな話をするのもよくない、そのうち会いましょう、時間と場所は連絡するから、と言う。電話が盗聴されることもあるのだ、生活が、スパイに監視されることだってあるのだ、ということをわたしが知ったのは、そのときが初めてではなかったか。わたしはすごい、と思い、わくわくしたのだった。

ところが待っていても、一向にジュリアから連絡はなかった。わたしが電話をかけてから二週間後、新聞の見出しを、オーストリアのナチ部隊に援護された政府軍が、ウィーンのフローリズドルフ地区にあるカール・マルクス広場を爆撃した、というニュースが飾った。その地域を統括している社会主義労働者が襲撃に抗し、二百人が殺害されたとある。“第四共和国”という名前の小さなレストランでこの記事を読んだわたしは、食事を途中にしてアドレス帳を確かめに、ホテルへ駆け戻った。ジュリアの住所はカール・マルクス広場ともフローリズドルフとも関係がない。寝ることにして横になり、いらない想像をするんじゃない、と自分に言い聞かせた。朝の五時、電話があり、男がフォン・ジンマーと名乗った。こちらはウィーン、ジュリアが入院している、と。

ウィーンまでのことも、二度と見ることのなかった街の様子も、病院の名前も、何語を使って病院まで行き、さらに中へ入ったのかも、わたしはすべて記憶から抜け落ちてしまっている。だが、それからあとのことは、なにひとつ忘れてはいない。そこは貧しい地区に建つ小さな病院だった。病棟には四十人ほどの人がいた。ジュリアのベッドはドアをあけてすぐのところ。顔の右側がすっぽりと包帯でおおわれ、そこから頭部をまわって左側のほとんども、左眼と口だけ残して巻きつけてあった。ベッドカバーの上に右腕は出ており、右足は見えなかったけれど台の上に載せられているようだった。病室には白衣を着た人も数人はいたけれど、介護をしている人のほとんどは私服で、十二、三歳の少年がわたしに椅子を持ってきてくれ、ジュリアにドイツ語で声をかけた。「お友だちが来ましたよ」そういうと、ジュリアが左の眼でわたしを見ることができるよう、頭の向きを変えた。ジュリアはわたしが眼に入っても、眼も手も動かすことはなく、ふたりともおし黙っていた。この最初のお見舞いのことは、何ひとつ、記憶から漏れてはいない。記憶しておくべきことがらが、なにひとつなかったのだ。しばらくしてジュリアが右腕を持ち上げて、部屋の中央を示したので、わたしが少年を見ると、バケツを運んでいた彼は看護婦に何ごとか話しかけた。看護婦はベッドにやってきて、ジュリアの頭を反対に向け、明日またいらっしゃい、と言った。受付を通り過ぎようとしたとき、さきほどの少年が廊下で待っていて、ホテル・ザッハーに部屋を取れという。そこは高すぎるから、荷物を持ってよそを探しに行こうとしたところ、ホテルのフロントにはメモが言付けてあり、そこならばわたしの身は安全であり、しかもそれはジュリアにとっても一番良いのだ、と。メモには、ジョン・フォン・ジンマー、と署名があった。

その夜、もういちど病院に戻ろうとしてトロリーバスを降りたところで、午前中は見なかったものを見た。その界隈が警官に厳重に包囲され、警官とは異なる制服に身を包んだ者たちもいた。病院側は、わたしは病棟に入ることはできない、という。患者は手術を受けた後で、眠っている、と。何の手術ですか、とわたしがたずねると、患者とどういう関係があるのか、と聞いてくる。けれどもわたしのドイツ語も、そのほか諸々のことも、限界にきてしまっていた。病院の受付で、ジョン・フォン・ジンマーの住所も聞いてみたのだけれど、そんな名前は知らない、というばかりだった。

(この項つづく)