陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ダイアン・アーバスの写真に対する補筆 その2.

2006-04-27 22:18:56 | 
2.アーバスの写真を見てみる

さて、ここでほかの写真と比べながら、アーバスの写真の特徴を探ってみよう。

右はアーバスの〈ベッドルームの三つ子、ニュージャージー〉(1963)である。
三つ子は三人ともこちらにしっかりと目を向けている。意識的に表情を作ることはしていないけれど、緊張した印象はない。
http://robthurman.com/images/arbus.jpg



左はウォーカー・エヴァンスの〈地下鉄〉(1938)
エヴァンスはニューヨークの地下鉄で隠しカメラを使い、乗客の姿を盗み撮りした。撮られていることを知らない人々の表情に浮かび上がる「素」を浮かび上がらせたのである。当然、写された人々はこちらを向いていない。

http://www.tfaoi.com/am/8am/8am318.jpg




さらにこれはユージーン・スミス〈カントリー・ドクター〉(1948)
スミスは地方の医者につきそい、その仕事の様子を一種のストーリーのように記録していった。
この写真は特に、一枚だけでも物語を感じることができる。
http://cafdes2004.free.fr/photos/smith_country_doctor_surgery.jpg

こうやってほかの写真家の写真と見比べてみると、アーバスの写真の特徴が浮かび上がってこないだろうか。

エヴァンスの写真が「だれでもない地下鉄の乗客」を撮っているのに対し、こちらを向いた三つ子はほかのだれでもない「ニュージャージーの三つ子」である。
それだけではなく、それを撮った写真家の存在も、感じずにはいられないのではないだろうか。
笑うわけでもない、緊張しているわけでもない、この三人の視線の先にいるアーバス。

アーバスの写真には「物語」はない。地下鉄の乗客よりも、三つ子の写真は情報が遮断されている。わたしたちにわかるのは、奇妙な模様の後ろの布と、三人が三つ子であることを強調するかのような、同じ髪型と服装であること、つまりは三つ子である、ということしかわからない。

一切のフィクションを排しているから、スミスの写真に比べると、単純にわかることはできない。
けれども、この三つ子を、不思議に知ったような気がする。そうして、さらに、もっと知りたくはならないだろうか。

そうして、もうひとつ、三つ子の写真を見ながら、それを撮った写真家の存在を感じる。笑いもしない、緊張もしない、けれども三人の目の先にいるのは、間違いなく写真家アーバスだ。

アーバスは言う。「小人であるというのはどういうことか私にはわからない。しかし小人であるということはどういうことか、それはわかる」(ボズワース『炎のごとく』)

アーバスの写真を見るとき、わたしは「どういうことか、それはわかる」と思ったアーバスを通して、「どういうことか」わかるような気がする。

それがアーバスの写真であると言えるのではないだろうか。

(この項つづく)