陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ダイアン・アーバスの写真に対する補筆 その1.

2006-04-26 22:51:18 | 
以前、パトリシア・ボズワース『炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス』(名谷一郎訳 文藝春秋)の本を元に、写真家のダイアン・アーバスについての小文を書いた。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/arbus.html

このときは評伝をもとに、自分が惹かれたアーバスの言葉を紹介したいと思ったのだ。けれども、アーバスの写真についてはふれることができなかった。そのことがずっと心残りで、もっと写真にアプローチできないものだろうか、と折にふれて考えてきた。

ここで、もういちど、アーバスの写真について書いてみたい。

http://www.vam.ac.uk/vastatic/microsites/1355_diane_arbus/exhibition.php
(※リンク先参考画像:アーバスの写真〈白子の剣の呑み込み〉)

この写真はおもしろい。
まず、これは被写体の剣を呑み込む人が楽しんでポーズをつけているのがわかる。
自分の「芸」を見て欲しい。
アーバスは、言葉を交わし、この女性のことを知りたいと願い、賛嘆している。

アーバスの写真が、ある種の人々の嫌悪感をかきたてるのは、想像に難くない。
「差別はいけないこと」と思っている人は、まず絶対にアーバスを認めないだろう。

わたしたちは、異形の人々に惹かれる。
不思議なことができる人々に惹かれる。
おそらく、これは同根の感情だ。
おもしろい、と思う。なんでおもしろいのかよくわからないけれど、おもしろいのだ。だからもっとよく見たい。

もちろん、おもしろく感じない人もいるのだろう。そういう人は、おそらく知りたくないのだ。

思い遣り、というのは、基本的には、想像力の問題だ。
どういうことかというと、実際に人間と人間の具体的なつきあいのなかでしか生まれないものだし、理解もできない。事前にシミュレーションできるものでもないし、覚えておけるものでもない。こういうときにこうしたらいい、なんてことがあらかじめ決まっていることでは断じてないのだ。
想像力を働かせることができない人間が、ノウハウとして覚えている「思い遣り」なんて、結局は優越感を強化するものとしてしか働かないのだ。
差別はよくない、と繰りかえし教えられて、学ぶものがあるとしたら、それは、そういう人はかわいそう(裏返しとしての、自分の優越感)、自分はそうじゃなくて良かったという満足でしかない。

知りたいと思う。見たいと思う。不思議だと思う。
アーバスのこの写真は、「差別はよくない」という標語による思考停止を揺さぶるものはないだろうか。

(この項つづく)