読むことについての優れて実践的な指導者に、竹内敏晴がいる。彼の『ことばとからだの戦後史』(ちくま学芸文庫)という本のなかで、「こえによってよむ」ということはどういうことかが考察されている。
まず竹内は、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』を援用しつつ、ことばには二種類がある、という。
ひとつは、情報伝達のためのことば。
そうしてもうひとつは、情念、イメージ、思索などが、からだの奥からわずかに姿を現して、「ことば」の形に「なる」瞬間の「今生まれ出ることば」。
社会生活の中で、人は前者を獲得しなくては生きてゆけない。だが、それは操作することはできるが、それによって人は生きるという感じを持つことはできない。後者が生まれ出る瞬間、人は生きることを体感する。それは常に私たちのからだの内に、あるいは世界に満ちて待ちかまえている。近づいてくる。だがそれを把えるのは、というより把えたと自覚することは、いかに難しいか。この作業に障害を賭けたものを人は詩人と呼ぶ。が、無自覚の中に子どもは原則として常にこの世界にいるのだ。そして敢えて言えば、ことばに障害を持つものが、その全身をかけて発する一語もまたつねにこの種のことばであり、それ故に、社会的流通不能であることも多いのである。
だとすれば、たとえば、詩を、声に発して「よむ」ということは、一度生まれ出た、しかしそのまま凝固されて文章化し印刷され、ものと化した「ことば」を、再び「今、生まれ出る」姿そのものに甦えらせる作業だ、と言いうるだろう。それは情報伝達のための音操作という技術では跳びこえることの不可能な次元に立っている。
ことばには二種類ある。これはわたしたちも実感できるのではないか。
たとえば、コミュニケーションということを考えてもいい。
仮にともだちと会って話をしている、とする。
そのとき、情報のやりとりは、会って話をすることの眼目ではない、というか、情報のやりとりが眼目の関係を「友だち」とは呼ばない。
ことばを聞く。けれどもそれは情報を交換するのではなく、ことばの向こうにある「相手」を理解しようとする行為である。
尼ヶ崎彬は『ことばと身体』のなかで、こういう場合の聞き手が相手のことばを理解するとは、「自分の心身によって相手の心身をなぞることにほかならない」とし、ウィリアム・コンドンの「相互シンクロニー」という現象を紹介している。
向かい合って話す話し手と聞き手の動きは、まるで鏡に向かい合うように同期する、というのである。
わたしたちは話相手の身体の動きを自らの身体でなぞる。意識しての行動ではない。コミュニケーションの流れのなかで、わたしたちの身体は、自然に呼応していくのである。
あたかもダンスをするように。
あるいは、「知る」と「理解する(わかる)」という分類のしかたでもいい。
Aさんのことは知っている。どこに住んでいて、仕事は何で、顔を見ればすぐわかる。
けれどもその人を「わかって」いるのだろうか?
尼ヶ崎はこう指摘する。
わたしたちが「知った」と思うとき、知識は正確か不正確か、というだけである。
けれども「わかった」と思うとき、その理解は深いか浅いかである。
話し手と完全に同じ視点に立ち、同じ「見え」を見、同じ気持ちを抱いていると感じたとき、聞き手は相手のことを「深く理解した」と思う。そういうとき、わたしたちは「頭に入った」とは言わず、「腑に落ちた」「呑み込んだ」と言う。
情報レベルのことばと、そうでないことば。
そうして、そうでないほうのことばは、深く身体と結びついている。
***
谷川俊太郎の詩に「みみをすます」というものがある。
みみをすます
きのうの
あまだれに
みみをすます
みみをすます
いつから
つづいてきたともしれぬ
ひとびとの
あしおとに
みみをすます
先にあげた竹内は、これが授業の研究会で扱われた様子を紹介する。ほとんどの教師たちが
みみをすます
きのうのあまだれにみみをすます
と読んだとする。
それに対して、作者の谷川俊太郎は、
みみをすます
きのうの
あまだれに
みみをすます
と読んだという。
この読み方はどうちがうのだろうか。
竹内は、教師たちの読み方では、二行目は一行目「みみをすます」の説明にしかならず、また最後の「みみをすます」は単なる繰り返しになってしまう、という。
意味を伝えようとする、つまり、語の意味を解釈して、あるパターンにまとめてしまう。つまり、情報伝達の処理がなされてしまっている、というのである。
「感じとる」と主張している人からが、結局はその人の抒情的なり人生論的な解釈を「読む」「感じとる」ことを強いているにすぎない、という。
しかも、そのことに気づきさえしなかった、という。
それに対し、谷川は、詩を書いたそのままに、息の流れを切り、一行一行を独立して読んだ。
みみをすます
ここで聞き手は自分に向かって差し出された声を受け取る。
きのうの
ここで、聞き手の身体は、「今」から「きのう」へと引き戻される。
あまだれに
選ばれた事象に、聞き手は向かう。
みみをすます
この四行目は、第一行とはまったく次元の異なる発語になっている。
竹内は言う。一行一行のことばに出会う時に、目覚めてくる驚きが、詩をよむ、ということではないか、と。
詩をよむ、とは、解釈をよみ上げるのではない。感情をうたうことでもない。ことばをよむ、のであり、一つ一つの音にふれて、おのれのからだの内なるものが、広がり、動き、呼びさまされてくること、それに向かいあい、問い直し、受け取るプロセスにおいて、新しいおのれに出あうこと、世界に出あうことに他ならないのである。
(この項つづく)