陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

声に出して読むということ  その4.ことばがひびく、リズムを感じる

2005-02-15 18:32:31 | 


お嬢:月も朧に白魚の、篝(かがり)もかすむ春の空。冷たい風もほろ酔ひに、心持ちよくうか/\と、浮かれ烏(がらす)のただ一羽。塒(ねぐら)へ帰る川端で、棹の滴(しづく)か濡れ手で泡。思い掛けなく手に入(い)る百両。
――ト、懐の財布を出し、につこりと思入。この時、上手にて、
厄払:御厄払ひませう、厄落とし/\。
お嬢:ほんに今夜は節分(としこし)か。西の海より川の中、落ちた夜鷹は厄落とし。豆沢山に一文(いちもん)の、銭と違つた金包み。こいつァ春から、縁起がいいわへ。
(今尾 哲也『三人吉三廓初買 新潮日本古典集成』新潮社)

これは歌舞伎のなかでも「大川端の場」として知られる、もっとも有名な場面、そうしてこのせりふは江戸末期から、今日よりほんの二、三世代前ぐらいまで、知らない人はないというほど、人口に膾炙されたものである。由来が何であるかは知らなくても「こいつァ春から…」という部分だけでも知っている人はいまも多いにちがいない。

作者は幕末から明治にかけて、江戸歌舞伎最後の狂言作者である河竹黙阿弥。生涯に三百五十本もの作品を書いた黙阿弥自身、この『三人吉三廓初買』を「会心の作」としている。

ためしに「お嬢」のせりふだを声に出して読んでみてほしい。七五調の、なんともいえない口調の良さは、なんの背景知識がなくてもそれだけで楽しむことができる。

渡辺保は『黙阿弥の明治維新』(新潮社)のなかで、このせりふの魅力の秘密を三つの点から解き明かしている。

 第一に、そのうたわれている景色のよさである。早春の朧月夜に、川面に点々とうかぶ隅田川名物の白魚舟の篝火。川端を急ぐ人影。そういう絵が詩になっている。単にそれは一幅の絵だというわけではない。……世界の聴覚化だというところが大事なのである。……八百屋お七の姿をしたお嬢吉三は、このせりふの直前に、可憐な女からおそろしい盗賊の姿になる。この二つの世界――八百屋お七の世界と現実のお譲吉三の世界との危うい破れ目を縫うためにこそ、この耳に快いせりふがあらわれるのである。……
 第二に、この名せりふは、ごくリアルな手順から生まれてくることに注意しなければならない。これは現在、実際に上演されている舞台を見てもよくわからない。たとえば、現在は、お譲吉三が、おとせから金を奪って、太郎右衛門から庚申丸の刀を奪うと、いきなり、「月も朧に」になる。……しかし黙阿弥の書いたのは、そうではなかった。……黙阿弥は、実にリアルなのである。そのリアルさを周到に描いておいて、おもむろに七五調にいろどられた世界があらわれる。……このことは同時に、この非現実的な言葉のつくる世界が、きわめて現実的な世界と表裏一体のものだということである。お譲吉三の名せりふは、この二つの世界をつなぐものであり、その二つの一体感をつよめるために存在しているのである。……
 そして、第三に、この名せりふが七五調で書かれていることに注目しなければならない。……それはだれでも体験することだろうが、このせりふを聞き、読んでいるうちに、人はそのリズムにのって、いつか意味もイメージさえも感じなくなって、ただひたすらリズムだけを感じるようになってしまう。そうなれば、そこにあるのは、そのようなリズムに身をまかせている人間の身体そのものだけである。詩の空洞化は、同時に詩を口ずさむものとしての身体の復権を意味しているのである。


ことばによって、イメージが浮かび上がる。わたしたちはそのイメージを耳から聴く。徹底してリアルだからこそ、幻想的なイメージ。けれども、いったん浮かび上がったイメージも、ことばのひびきとリズムによって、次第にぼやけ、霞んでいく。残るのは読んでいる自分の声と身体だけ。

音読、ということと、身体ということには密接なつながりがありそうだ。
明日は「身体」が「読む」こととどう関わっていくかについて、考えてみたい。
(この項続く)